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カロル・シマノフスキ
Karol Maciej Szymanowski
1935年撮影
基本情報
生誕1882年10月6日
ロシア帝国、ティモシュフカ
ポータル クラシック音楽
シマノフスキのザコパネの別荘 Villa-ATMA。典型的なザコパネ様式と呼ばれる木造建築である。 シマノフスキの棺
カロル・マチエイ・シマノフスキ(ポーランド語: Karol Maciej Szymanowski, 1882年10月6日 - 1937年3月29日)は、ポーランドの作曲家。激動する時代に合わすかのようにその作風を何度か変えながら4つの交響曲、2つのヴァイオリン協奏曲、2つの弦楽四重奏曲、2つのオペラ、ピアノ曲や歌曲を残した。 18世紀のポーランド分割によって19世紀当時はポーランドからロシアに割譲されており現在はウクライナに属するティモシュフカ
目次
1 生涯
1.1 学習期
1.2 創作第一期
1.3 創作第二期
1.4 創作第三期
2 タトラ地方の民謡
3 主な作品
3.1 交響曲
3.2 管弦楽曲
3.3 協奏曲
3.4 室内楽曲
3.5 ピアノ曲
3.6 オペラ
3.7 宗教曲
3.8 声楽曲
4 外部リンク
生涯
学習期
父親のスタニスワフ・シマノフスキはポーランド人の裕福な大地主、母アンナはポーランドにやってきたスウェーデン系の移民で、カロルは3番目の子供であった。両親は音楽を愛し、家は芸術家が集まる一種のサロンのようになっていた。こうした環境からか、彼の4人の兄姉妹はいずれも音楽家、画家、詩人といった芸術の道に進んでいる。カロルは、4歳の時、脚に大怪我を負い一時期は歩けないほどであったため、学校へは行かず家庭内で初等教育を受けた。最初にピアノを教えたのも彼の父親であった。10歳になると、父スタニスワフの従姉妹マリアの夫にあたるグスタフ・ネイガウス(グスタフ・ノイハウス。息子はゲンリフ・ネイガウス)がエリザベトグラード(現在のキロヴォグラード)で開いていた音楽学校に入学した。
1901年、より専門的な音楽の教育を受けるためにシマノフスキはワルシャワに行き、和声学をマレク・ザヴィルスキ、作曲と対位法をジグムント・ノスコフスキに師事している。ここで彼は音楽グループ「若きポーランド」のメンバーとなる5人の音楽家と出会った。それは、アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアニスト)、パヴェウ・コハィンスキ(ヴァイオリニスト)、グジェゴシュ・フィテルベルク(指揮者)、ルドミル・ルジツキ(作曲家)、アポリナール・シェルト(作曲家)であった。彼らが旗揚げした「若きポーランド」はポーランドの若い音楽家の作品を出版、プロモートすることを目的とする音楽集団であった。1904年にワルシャワの音楽学校を卒業した後、シマノフスキはベルリンやライプツィヒで多くの時間を過ごしている。 シマノフスキの音楽教育の環境を考えれば至極当然であるが、創作初期には、ショパン、ワーグナー、スクリャービン、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガーらの影響が明らかな後期ロマン派の作風の作品を創作した。
創作第一期