(レッド・エンサイン)
カロライナ植民地の地図
公用語英語
首都チャールストン
君主
1663年 - 1685年チャールズ2世
1685年 - 1688年ジェームズ2世
1689年 - 1694年ウィリアム3世・メアリー2世
1694年 - 1702年ウィリアム3世
1702年 - 1712年アン
変遷
設立1663年3月24日
南北分離1712年1月24日
通貨スターリング・ポンド
現在 アメリカ合衆国
カロライナ植民地(カロライナしょくみんち、英:Province of Carolina)は、1663年から1729年まで北アメリカに存在したイギリスの植民地である。植民地の統治に関する意見の相違から1710年に北と南の2つの地区に分けられ、1729年に正式にノースカロライナ植民地とサウスカロライナ植民地に分割された。 イングランド王チャールズ2世は1660年の王政復古後、1663年3月24日に復位を誠実に支えた8名の者に褒美を与えた。国王の父であるチャールズ1世を称えて名づけたカロライナと呼ばれる植民地の植民地領主(Lords Proprietors)を、その褒美として与えた。 植民地領主に勅許された土地はバージニア植民地の南の境界である北緯36度線から南に北緯31度線(今日のジョージア州の海岸線までを含む)までの範囲であった。1665年、この勅許が少し変更されて、北限は北緯36度30分線まで上がり、バージニア植民地から離れたアルベマール湾沿いの開拓地を含んでいた。同様に南限も、今日のデイトナビーチの直ぐ南、北緯29度線まで下げられた。この南の方の土地にはスペインが実際に入植していたセントオーガスティンまでも含んでいた。さらにこの勅許は南限と北限の間の土地で大西洋から太平洋(当時の呼び方は南の海)までを含むとされた。 勅許に名前を記された植民地領主は、初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイド、初代アルベマール公爵ジョージ・マンク、初代クレイブン伯爵ウィリアム・クレイブン、ストラットンの初代バークレー伯爵ジョン・バークレー、初代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー、ジョージ・カートレット卿、ウィリアム・バークレー卿(ジョンの弟)、ジョン・コールトン卿の8人であった。8人の中で、カロライナに最も興味を示したのがシャフツベリであり、彼の秘書官であり哲学者のジョン・ロックは批准されることのなかったカロライナ憲法を書いたとされている。ジョン・ロックの起草した基本法は、領主らの参議が立法権を掌握する貴族政を提案したものであったが、他の植民地人が対等の権利を主張したために、信仰の自由以外は定着しなかった[1]。植民地領主の他の何人かは他の植民地にも興味を示した。ウィリアム・バークレー卿はバージニア植民地に、ジョン・バークレーとジョージ・カートレット卿はニュージャージー植民地という按配だった。 植民地領主は国王の勅許によってその権威が認められていたが、独立した主権に近い形で権威を行使することができた。実際の行政府は1人の知事、半分は植民地領主によって指名される強力な行政委員会および比較的力の弱い市民に選出された議会で行われた。 カロライナの領土内でイギリスの最初の開拓地設立の試みは、失われた植民地と呼ばれるロアノーク島であったが、この地域での最初の恒久的開拓地は1653年にバージニア植民地からの移民と他にニューイングランドやバミューダから来た移民によって設立されたものである。国王勅許の期限である10年間が過ぎる前に、現在のノースカロライナ州北東隅にあるアルベマール湾地区のチョワン川とロアノーク川堤に開拓地を築いたものであった。アルベマール開拓地はバージニアでは「はみ出し者の港」と呼ばれるようになった。
歴史
1663年勅許
植民地領主
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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