カロッツェリア・ギア(Carrozzeria Ghia SpA、1915年にトリノで設立)は、最も有名なイタリアの自動車ボディーデザインスタジオ(カロッツェリア)、コーチビルダーの一つである。ギア社はジアッキント・ギア(Giacinto Ghia
)とガリーリオ(Gariglio)の二人により、カロッツェリア・ギア&ガリーリオ(Carrozzeria Ghia & Gariglio)としてトリノのヴァレンティノ通り(Via Valentino)コルソ(Corso)4番地に設立された。目次ギア社は最初、1929年度のミッレミリアの記念すべき優勝車であるアルファ・ロメオ 6C 1500(Alfa Romeo 6C)に代表されるような軽量アルミニウム製ボディの車を製造していた。
第一・第二次世界大戦の間にはアルファロメオ、フィアット、ランチアの特製車をデザインし、なかでも最も有名なものはフィアット 508(Fiat 508)バリッラ(Ballilla) スポーツクーペ(1933年)であった。
1943年に第二次世界大戦中の空襲で工場は破壊されたが、後にトマッシ・グロッシ通り(Via Tomassi Grossi)に再建された。1944年にジアッキント・ギアが死亡したが、会社は戦後の1948年にマリオ・ボアノ(Mario Boano)とジョルジョ・アルベルティ(Giorgio Alberti)に売却され、スイスのエーグル(Aigle)に支社のギア=エーグル(Ghia-Aigle)が設立された。 1953年、カーデザイナーのルイジ・セグレ(Luigi Segre
ルイジ・セグレ時代
1953年にボアノがフィアット社へ去ると工場はアゴスティノ・ダ・モンテフェルトロ通り(via Agostino da Montefeltro)に移り、ルイジ・セグレがギア社を買い取った。その後ギア社はコーチビルダーであるピエトロ・フルアの会社を買収し、フルアをルノー・フロリード(Renault Floride)をデザインしたギア・デザイン(Ghia Design)(1957年 - 1960年)のトップに据えた。
ルイジ・セグレ率いるギア社とクライスラー社のデザイナーであるヴァージル・エクスナー(Virgil Exner)との密接なパートナー関係は、セグレ在籍期間よりはじまりセグレ死後の後も15年にわたり続くこととなる。その協力関係は18台のクライスラー・ギア(Chrysler Ghia)の特製モデル(1951年 - 1953年)、K-310、クライスラー・ノーズマン(Chrysler Norseman)、クラウン インペリアル・リムジン(ジャクリーン・ケネディ・オナシス、ネルソン・ロックフェラー等の著名人が所有した)、等々に結実した。その中にはギア社製ボディを架装した数台のフェラーリすらあった。
また、ギア社は短命に終わったデュアル=ギア(Dual-Ghia)事業にも参画している。総じてギア社の生産数は常に極僅かであり、この生産数が他のイタリアのコーチビルダーの車よりも希少価値を高めていた。
ジョルジェット・ジウジアーロ時代)に売却され、1967年には再度ライバルのデザイン会社のオーナーであったアレッサンドロ・デ・トマソの手に渡るなど、その経営環境は不安定であった。しかしこの間、1965年にはセグレの後任のチーフスタイリストとしてジョルジェット・ジウジアーロが入社しており、セグレ時代同様に多くの優れたデザインが製品化された。
この時代の代表作としてはマセラティ・ギブリ(1966年)、デ・トマソ・マングスタ・イソ・リヴォルタ・フィディア(共に1967年)がある。ギアは当時日本のいすゞ自動車をクライアントとしており、いすゞ・117クーペ(1966年プロトタイプ発表・1968年発売)もこの時期のギアの秀作の一つである。また、ジウジアーロのデザインではないが、いすゞ・フローリアン(1966年プロトタイプ発表・1967年発売)もこの時期のギア社のデザインである。
ギア社がデ・トマソの傘下に入った翌年の1968年、ジウジアーロはギアを辞めて自らの会社・イタルデザインを興した。後任のチーフスタイリストはトム・チャーダで、フォード社製5,750 cc(351 cu in)OHV V型8気筒 エンジン搭載のデ・トマソ・パンテーラの開発に関わった。
フォード車のブランドとして