カレル・シュヴァルツェンベルク
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 チェコ政治家カレル・シュヴァルツェンベルクKarel Schwarzenberg
カレル・シュヴァルツェンベルク(2019年)
生年月日 (1937-12-10) 1937年12月10日
出生地 チェコスロバキア プラハ
没年月日 (2023-11-11) 2023年11月11日(85歳没)
死没地 オーストリア ウィーン
出身校ウィーン大学
グラーツ大学
ミュンヘン大学
所属政党オーストリア国民党
緑の党(非党員)
US-DEU(元老院議員時代)
ODA(解党)
TOP 09
配偶者テレーゼ・ハルデッグ
サイン
チェコ共和国外務大臣
在任期間2007年1月9日 - 2009年5月8日
首相ミレク・トポラーネク
在任期間2010年7月13日 - 2013年7月10日
首相ペトル・ネチャス
チェコ共和国代議院議員
在任期間2010年5月 - 2021年10月
チェコ共和国元老院議員
選挙区プラハ第6区
在任期間2004年11月 - 2010年5月
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シュヴァルツェンベルク外相(2007年5月12日)

カレル・シュヴァルツェンベルク[1]チェコ語: Karel Schwarzenberg、1937年12月10日 - 2023年11月11日)は、チェコの政治家。外務大臣(2回)、第一副首相、TOP 09党首などを歴任した。

ボヘミア有数の大貴族だったシュヴァルツェンベルク侯家の家長(1979年 - 2023年)であった[2]ドイツ語の全名はカール・ヨハンネス・ネポムク・ヨーゼフ・ノルベルト・フリードリヒ・アントニウス・ヴラティスラウ・メナス・シュヴァルツェンベルク(Karl Johannes Nepomuk Joseph Norbert Friedrich Antonius Wratislaw Menas Schwarzenberg)。伝統的な貴族称号を重んじてシュヴァルツェンベルク侯(Karl(VII.) Johannes Furst zu Schwarzenberg)と呼ばれることもある[3][4]
経歴

弟系シュヴァルツェンベルク侯家家長カール(チェコ語版)(Karl(VI.) Schwarzenberg、1911年 - 1986年)と、その妻のフュルステンベルク侯女アントーニエ(チェコ語版)(Antonie Prinzessin zu Furstenberg、1905年 - 1988年)の間に長男(第2子)として生まれた。1948年に共産党クーデターが起きると、家族で国外に亡命し、スイス国籍を取得してオーストリアに移住した。このためチェコスロバキアとスイスの二重国籍者となった[5]ウィーン大学グラーツ大学法学を、ミュンヘン大学林学を学んだ[6]

1960年代より保守派のオーストリア国民党の党員として活動し、同党内ではシュヴァルツェンベルクを将来の外相候補に推す声も挙がった[7]。その後、出身国チェコスロバキアの共産党独裁体制に対する抗議活動や人権擁護活動に活動の重点を移した。1984年から1991年まで、人権のための国際ヘルシンキ委員会(英語版)の委員長を務め、1989年にヨーロッパ人権賞(英語版)を受賞した。同年末にビロード革命が起きてチェコスロバキア共産党の独裁が終わると、同国に帰国した。

1990年7月から1992年7月にかけて、チェコ大統領ヴァーツラフ・ハヴェルの大統領府長官を務めた。ハヴェルとは長年の友人で、ハヴェルが1996年に笹川陽平とともに創設したフォーラム2000(英語版)のメンバーにも名を連ねた。2004年11月にはプラハ第6区選出の元老院議員に就任した。2005年5月、ドイツ連邦議会議員アルノルト・ヴァーツ(ドイツ語版)と一緒にキューバを訪れた際に反体制派と会合を開こうとしたため、キューバを追い出された[8]。2006年に元老院の外交・防衛・安全保障委員会委員長を務めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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