カルーガ
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カルーガ
Калуга


市旗市章

位置

ロシア内のカルーガ州の位置
座標 : 北緯54度32分 東経36度16分 / 北緯54.533度 東経36.267度 / 54.533; 36.267
歴史
建設1371年
行政
ロシア
 連邦管区中央連邦管区
 行政区画 カルーガ州
 市カルーガ
市長ニコライ・リュビーモフ
(Nikolay Lyubimov)
地理
面積 
  市域125.5 km2
標高190 m
人口
人口(2008年現在)
  市域326,935人
その他
等時帯モスクワ時間 (UTC+3)
郵便番号248xxx
市外局番+7 4842
ナンバープレート40
公式ウェブサイト : ⇒http://www.kaluga-gov.ru/

カルーガ(ロシア語: Калу?га, Kaluga)は、ロシア連邦南西部カルーガ州の州都。人口は343,300人(2005年)、2002年全ロシア国勢調査では334,751人、1989年ソ連国勢調査では311,319人。オカ川上流の左岸に位置する。モスクワから南西に188km。

モスクワとキエフを通る鉄道や高速道路が通るほか、古くからカルーガ道と呼ばれる道路でモスクワと結ばれている。

カルーガは、ロケット工学・航空宇宙学のパイオニアであるコンスタンチン・ツィオルコフスキーが長くここで暮らしていたことで知られる。彼はカルーガで教師として働き、後にはここに研究所を設けた。町には彼を記念したツィオルコフスキー記念航空宇宙学歴史博物館があり、町はしばしば「宇宙飛行のゆりかご」と呼ばれる。 ツィオルコフスキー記念航空宇宙学歴史博物館
目次

1 歴史

1.1 中世のカルーガ

1.2 近世のカルーガ

1.3 ナポレオン戦争以後


2 経済

3 交通

4 姉妹都市

5 脚注

6 外部リンク

歴史 オカ川とカルーガ市街
中世のカルーガ

14世紀中頃にモスクワ大公国の南西部の境界の守備のための要塞として、オカ川とウグラ川の合流点からほど近い場所に建設された。1371年にカルーガの名でリトアニア大公アルギルダスの書簡に記録されている。コンスタンディヌーポリ総主教フィロセオスに宛てたこの書簡の中で、モスクワ大公国に奪われた町の一つとしてカルーガの名が挙げられている。

中世のカルーガは、オカ川上流公国群の一つヴォロツィンスク公国に発祥しモスクワ大公国の有力貴族となったヴォロツィンスキー公が治める小さな町であった。もとの中心地であったヴォロツィンスクの町は、現在のカルーガ市のすぐ南西にあったとされる。カルーガとモスクワの間にはカルーガ道と呼ばれる旧道があり、中世から近世には盛んに使われた。現在の国道A101号は部分的にこの旧道の近くを通る。

1480年には、大オルダのアフマド・ハンとリトアニア大公国の連合軍に対し、モスクワ大公国のイヴァン3世の軍がにらみ合いをした「ウグラ河畔の対峙」と呼ばれる出来事が起こり、ロシアに対するモンゴルの支配(「タタールのくびき」)の終わりを告げる戦いとなった。カルーガはモスクワ大公国軍の拠点となり、この後もモスクワを目指して攻めてくる西方のリトアニアや南方のタタール人の軍をここで食い止める要塞となった。17世紀初頭の動乱時代ロシア・ポーランド戦争ではポーランド・リトアニア共和国軍や偽ドミトリー2世軍によりカルーガは蹂躙された。モスクワ付近の本拠地トゥシノから逃れていた偽ドミトリー2世をウルソフ公が殺したのはカルーガでの出来事であった。カルーガにあった木造のクレムリ(要塞)は、1654年にウクライナがポーランドからロシアへ割譲されると重要性を失い、18世紀に焼失したまま再建されなかった。
近世のカルーガ 1780年から1787年にかけての都市計画で建設された門。ピョートル・ニキチンの設計による

1708年ピョートル1世による地方改革で、カルーガはモスクワ県の一部となる。1775年にはエカチェリーナ2世がカルーガに行幸し、翌1776年8月24日にはカルーガ県が設けられ、カルーガは12の郡をまとめる県都となった。


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