カルロ2世
Carlo II
エトルリア国王
ルッカ公
パルマ公
カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ(アンドレアス・シュタウブによるリトグラフ)
在位1803年5月27日 - 1807年12月10日
(エトルリア王)
1824年3月13日 - 1847年12月17日
(ルッカ公)
1847年12月17日 - 1849年5月17日
(パルマ公)
出生1799年12月27日
スペイン王国、マドリード
死去 (1883-05-17) 1883年5月17日(83歳没)
フランス共和国、ニース
配偶者マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイア
子女ルイーザ
カルロ3世
家名ブルボン=パルマ家
父親エトルリア王ルドヴィーコ1世
母親マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ
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エトルリア王国。カルロ・ルドヴィーコとその母マリーア・ルイーザ: AR Dena - 10 Lire (1803年)
カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ(イタリア語: Carlo Ludovico di Borbone, 1799年12月27日 - 1883年5月17日)は、カルロ2世ルイージ・ディ・パルマ(イタリア語: Carlo II Luigi di Parma)とも言い、エトルリア王(在位:1803年 - 1807年)、ルッカ公(在位:1824年 - 1847年)、パルマ・ピアチェンツァ公(在位:1847年 - 1849年)である。 カルロの祖父フェルナンドは1765年から1802年までパルマ公であった。フェルディナンドがナポレオン・ボナパルトにパルマ公国を譲渡した時、その息子ルドヴィーコ、つまりカルロ・ルドヴィーコの父はナポレオンがトスカーナ大公国に代えて新たに建てたエトルリア王国の王となった。 カルロ・ルドヴィーコは1803年に、スペイン王カルロス4世の娘である母マリーア・ルイーザの摂政の下で父の王位を継いだ。しかし、1807年にナポレオンの軍隊によって捕らえられ、エトルリアから北ルシタニア(ポルトガル北部)の王位に変更を約束された。 ナポレオン失墜後の1815年、ブルボン=パルマ家はパルマ公国を回復できず、パルマはナポレオンの皇后だったマリーア・ルイージャに与えられた。母のマリーア・ルイーザはわずかにルッカ公国を確保するにとどまった。1824年に彼女が死去すると、カルロ・ルドヴィーコはルッカ公に即位した[1]。彼は公国に経済政策を導入、教育を推進した[1]。また母が彼の周りに置いた聖職者たちの頑固さへの反動として、彼は1832年にプロテスタントに改宗した[1]。自由主義の傾向も示し、1831年にはモデナ公国の政治犯を庇護し、カルボナリの一員と噂された[1]。しかし1842年にはカトリックに再改宗、イギリス出身のトマス・ウォード
生涯
1847年にパルマ女公マリーア・ルイーザが死去すると、カルロ・ルドヴィーコはフィレンツェ条約(英語版)に基づきパルマ公を継承、カルロ2世(Carlo II)として即位した。彼がパルマを統治したのは短期間だけであり、その間のパルマは財政が破綻しており、税金が増え、政情不安に見舞われた[1]。それをみたカルロ2世はオーストリアと攻守同盟を締結した[1]。翌年に1848年革命が勃発すると、3月19日に首都で暴動がおきた[1]。カルロ2世は最初はオーストリアとの同盟を破棄して憲法制定を保証したが、突如心変わりして4月に退位した[1]。臨時政府が成立したパルマでは国民投票によりサルデーニャ王国との合邦が決定されたが、1848年8月にサルデーニャ王カルロ・アルベルトが第一次イタリア独立戦争に敗れてオーストリアと停戦、オーストリアのゲオルク・フォン・トゥルン・ウント・ファルサッシナ(ドイツ語版)将軍はパルマ公国を占領した[1]。カルロ2世はヴァイシュトロップ(ドイツ語版)から勅令を発して臨時政府の決定を無効とした[1]。1849年にサルデーニャ軍が再びオーストリアを攻撃すると、オーストリア軍はパルマから撤退したが、4月にコンスタンティン・ダスプレ(イタリア語版)将軍に再占領された[1]。カルロ2世は1849年5月に退位を確認、妃マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイアとの間の息子カルロ3世が公位を継いだ[1]。
退位後、カルロ・ルドヴィーゴはフランスに移り、ヴィッラフランカ伯爵と名乗って余生を送り、1883年にニースで没した。 1820年、マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイアと結婚した。
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