カルロス・ベルトラン
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カルロス・ベルトラン
Carlos Beltran
ヒューストン・アストロズでの現役時代
(2017年7月21日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 プエルトリコ自治連邦区マナティ(英語版)
生年月日 (1977-04-24) 1977年4月24日(47歳)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
215 lb =約97.5 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション外野手指名打者
プロ入り1995年 ドラフト2巡目(全体49位)でカンザスシティ・ロイヤルズから指名
初出場1998年9月14日
最終出場2017年10月31日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴


フェルナンド・カジェホ高等学校

カンザスシティ・ロイヤルズ (1998 - 2004)

ヒューストン・アストロズ (2004)

ニューヨーク・メッツ (2005 - 2011)

サンフランシスコ・ジャイアンツ (2011)

セントルイス・カージナルス (2012 - 2013)

ニューヨーク・ヤンキース (2014 - 2016)

テキサス・レンジャーズ (2016)

ヒューストン・アストロズ (2017)

国際大会
代表チーム プエルトリコ
WBC2006年2009年2013年2017年
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獲得メダル
男子 野球
プエルトリコ
ワールド・ベースボール・クラシック
銀2013野球
銀2017野球

カルロス・イバン・ベルトラン(Carlos Ivan Beltran, 1977年4月24日 - )は、プエルトリコのマナティ(英語版)出身の元プロ野球選手外野手)。右投両打。

2000年代のMLBを代表する5ツールプレイヤーとして知られる。ESPNや『スポーツ・イラストレイテッド』から2000年代10年間の "All-Decade team" 中堅手部門に選出されている[1][2]スイッチヒッターとして成功した数少ない選手の1人である。
経歴
プロ入り前

4人兄妹の次男で、上に兄が、下に2人の妹(双生児)がいる。野球を始めたのは5歳頃[3]。子供の頃は兄と共にアンディ・バンスライクのファンだったが、プエルトリコ出身のバーニー・ウィリアムスウィンターリーグで活躍するのを目の当たりにし、次第に2人ともウィリアムスに憧れを抱くようになっていった[4]。ベルトランはウィリアムスについて「走攻守のすべてを兼ね備えていて、いつでも真摯な態度でゲームに臨む。ベースボールを尊敬していて、そして愛している。そんな彼こそが僕にとっては最大限の尊敬に値する」と話している[5]。当時住んでいた家が「家というよりは小屋と呼んだ方がいいかもしれない。6人家族が住むには小さすぎる家だった」と語るベルトランは、メジャーリーガーになって両親に立派な家をプレゼントするという夢を持つようになった[4]

高校入学後、15歳で遊撃手から中堅手へ転向したベルトランは、スカウトからも注目される選手になっていく[4]。また野球以外にバレーボールでも活躍していたが、17歳のときに父親から「バレーボールもなかなかだが、野球で大金を稼げる才能を授かったな」と言われてからは、野球一本に絞っている[6]。MLBのトライアウトに20回以上参加したベルトランは、複数のスカウトからドラフト1巡目レベルとの高評価を受けた。
プロ入りとロイヤルズ時代

1995年のMLBドラフト直前、腰の筋肉を痛めたという情報が漏れたため、結局ドラフトではカンザスシティ・ロイヤルズからの2巡目(全体49位)指名となった[7]

6月5日にロイヤルズと契約したベルトランはマイナーリーグ最下層のルーキー級に配属されることになり、故郷プエルトリコを離れアメリカ合衆国本土のフロリダ州へと向かう。ガルフ・コーストリーグでプロデビューした1年目は52試合で打率.278を記録。ただ、シャイな性格の持ち主であることや言葉が通じないことなどから、ホームシックにかかった[4]。後に彼の妻となるジェシカによると、プエルトリコにいたときは無口だったベルトランが本土へ行ってからは彼女に毎日、それも「1日に20回はあったかと思ってしまうくらい」電話をかけるようになったという[8]。シーズン終了後プエルトリコに戻り、ウィンターリーグに参加。そこで憧れのバーニー・ウィリアムスと出会う。ウィリアムスはベルトランに「実力はあるんだから、努力を怠るなよ」とアドバイスした[9]

1996年に右打ちからスイッチヒッターへ転向。「このままではいけないな」と考えてのことだったが、「タイミングを狂わされないようにするというのが難しかった」と振り返るように左打席で苦しんだシーズンとなり、シーズン終了後はプエルトリコでも左打席での打撃を特訓する[3]

1997年、A+級ウィルミントン・ブルーロックスで11本塁打のうち10本を左打席から放ち、スイッチヒッターとして成長を見せた[4]。また、守備については広い守備範囲と強肩が高く評価されている[7]

1998年にはシーズン途中でA+級ウィルミントンからAA級ウィチタ・ラングラーズに昇格。2クラス合計で99試合に出場し、打率.313、19本塁打、76打点、18盗塁OPS.948という好成績を残した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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