この項目では、メキシコ出身のギタリストについて説明しています。その他のカルロス・サンタナまたはカルロス・サンターナについては「カルロス・サンタナ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はサンタナ、第二姓(母方の姓)はアルベスです。
カルロス・サンタナ
Carlos Santana
基本情報
出生名Carlos Augusto Santana Alves
生誕 (1947-07-20) 1947年7月20日(76歳)
出身地 メキシコ・ハリスコ州
アウトラン・デ・ナヴァロ
カルロス・アウグスト・サンタナ・アルベス(Carlos Augusto Santana Alves, 1947年7月20日 - )は、メキシコ生まれでアメリカ国籍のギタリスト。自身の名を冠したロック・バンド「サンタナ」を1960年代から率いている。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第15位、2011年の改訂版では第20位。
経歴
生い立ち(英語版)生まれ。マリアッチのヴァイオリン奏者だった父の指導のもと、5歳でヴァイオリンを習い、8歳でギターを習った[注釈 1]。 弟のホルヘ・サンタナ(英語版)もプロのギタリストになろうとした。米国のロックとポップ・ミュージックにメキシコ人はごく少数しかいなかったその当時、カルロスはリッチー・ヴァレンスから大きな影響を受けた。カルロスの家族は、カリフォルニア州との国境沿いのティフアナへ移住し、その後サンフランシスコへ移った。カルロスはティフアナに留まったが、1962年にサンフランシスコで家族と合流した。10歳から12歳の頃、カルロスに国境を越えさせたアメリカ人の男にカルロスは性的虐待を受けたという[1][注釈 2]。
カルロスはサンフランシスコのミッション・ディストリクトに住み、ブルースやラテンジャズに傾倒した。James Lick Middle Schoolを卒業し、1965年にMission High Schoolを卒業した。カリフォルニア州立大学ノースリッジ校とハンボルト州立大学(英語版)に入学することができたが、大学に通うことを選ばなかった[2]。
キャリア"1960年代は、人間の意識における飛躍の時だった。マハトマ・ガンディー、マルコムX、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、チェ・ゲバラ、マザー・テレサ。彼らが意識の革命を率いた。ビートルズ、ドアーズ、ジミ・ヘンドリックスらが革命を創り、発展のメロディを創造した。その音楽はサルバドール・ダリのようなもので、多くの色彩と革命的な手法があった。今の若者たちは、自分自身を見つけるためにそこへ行かなければならない。"? カルロス・サンタナ[3]。
カルロスは、B.B.キング、T-ボーン・ウォーカー、ジョン・リー・フッカーといったような1950年代の人気のあるアーティストから影響を受けた[4]。ギターの演奏を始めて間もなくカルロスは、50年代のロックンロールに独特のタッチを加えることができる場となる地元のバンド「Tijuana Strip」に加わった[4]。ジャズやフォークソングを含む様々な新しい音楽の影響も受け、1960年代のサンフランシスコを中心として興っていたヒッピー運動も目にした。その後の数年間は食堂での皿洗いと路上ライブで少額を稼ぎ、フルタイムのミュージシャンになることを決めた。
1966年、当時カルロスはビル・グラハム(英語版)のフィルモア・ウエスト(英語版)に観客として通っていた。ある日、ポール・バターフィールドがフィルモア・ウエストで公演する予定になっていたが、ポールは酔っ払ってしまったため公演できなかった。ビルは、ポールのバンドやグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインなどとのコネクションを通じて知っているミュージシャンを集めて即席のバンドを組んだが、ギタリストが足りなかった。カルロスのマネージャーのStan Marcumが、カルロスをそのバンドに加えることを直ちに提案しビルは同意した。ジャムセッションでのカルロスのギター演奏とソロは、観客とビル双方の注目を集めた[5]。その年にカルロスは、仲間のストリートミュージシャンのデイヴィッド・ブラウン (ベース)、マーカス・マローン(パーカッション)、グレッグ・ローリー (ミュージシャン)(英語版)(リード・ヴォーカル、ハモンドオルガン)と共にSantana Blues Bandを結成した[6]。
1968年9月、アル・クーパーのライヴに参加。この時演奏された「ソニー・ボーイ・ウィリアムスン」(ジャック・ブルースのカヴァー)は、マイク・ブルームフィールド&アル・クーパー名義のライヴ・アルバム『フィルモアの奇蹟』に収録。