カルロス・サウラ
Carlos Saura
2008年のサウラ
本名Carlos Saura Atares[1]
生年月日 (1932-01-04) 1932年1月4日
没年月日 (2023-02-10) 2023年2月10日(91歳没)
出生地 スペイン・ウエスカ県ウエスカ[1]
死没地 スペイン・マドリード州マドリード近郊
国籍 スペイン
職業映画監督・脚本家
配偶者アデラ・メドラーノ(1957-????)
メルセデス・ペレス(1982-????)
エウラリア・ラモン(2006-)[1]
受賞
カンヌ国際映画祭
審査員特別グランプリ
1976年『カラスの飼育』
審査員賞
1974年『従妹アンヘリカ』
芸術貢献賞
1983年『カルメン』
ベルリン国際映画祭
金熊賞
1981年『急げ、急げ』
銀熊賞(監督賞)
1966年 『狩り』
1968年『ペパーミント・フラッペ』
ヨーロッパ映画賞
生涯貢献賞
2004年
英国アカデミー賞
外国語作品賞
1984年『カルメン』
ゴヤ賞
監督賞
1990年『歌姫カルメーラ』
脚色賞
1990年『歌姫カルメーラ』
名誉ゴヤ賞
2022年
その他の賞
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カルロス・サウラ(スペイン語: Carlos Saura, 1932年1月4日 - 2023年2月10日[2])は、スペイン・ウエスカ出身の映画監督・脚本家。
経歴2002年のサウラ
母親はピアニスト、兄のアントニオ・サウラ(英語版)は画家である[1]。ティーンエイジャーの頃には写真を学び、1949年から写真家としても活動した[3]。1950年には16mmカメラで初の長編映画を製作した[1]。アラゴン地方のウエスカからマドリードに出て、いったんはエンジニアへの道を歩み始めたが、写真と映画への情熱から、1952年に映画調査・研究インスティテュート(IIEC、後のスペイン国立映画学校(スペイン語版))に入学[3][1]。映画製作の勉強に加えて、ジャーナリズム学校でジャーナリズムも学んだ[1]。1957年にはIIECを卒業し、『日曜日の午後』でスペインでの映画製作に必要な映画監督資格を取得[3][1]。1958年からはIIECで教鞭をとったが[3]、1963年にはフランコ政権の検閲が原因でIIECを離れた[1]。
在学中の1955年から短編映画の製作を始め、1958年に『Cuenca』で長編映画監督としてデビュー。1962年の『Los Golfos』はマドリードの最貧地区を社会学的観点で撮影した作品であり、スペイン・ネオリアリズムの形成を試みた[1]。1966年の『狩り(英語版)』と1968年の『ペパーミント・フラッペ(英語版)』で二度のベルリン国際映画祭監督賞を受賞している[1][4][5]。サウラと交際していたジェラルディン・チャップリン
1974年には『従妹アンヘリカ(英語版)』で第27回カンヌ国際映画祭で審査員賞を、フランシス・フランコが死去した後の1976年の『カラスの飼育』で第29回カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞している。1979年の『ママは百歳(英語版)』は、1980年の第52回アカデミー賞で外国語映画賞にノミネートされた[1][6]。1960年代から1970年代にはスペインを代表する映画監督であった[3]。
1980年代に入り、1980年には第1回スペイン映画国民賞を受賞した。1981年に『急げ、急げ(英語版)』が第31回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞[7]。その後製作した『血の婚礼』(1981年)、『カルメン(英語版)』(1983年)、『恋は魔術師(英語版)』(1986年)は「フラメンコ三部作」として知られる。『カルメン』は第36回カンヌ国際映画祭で芸術貢献賞を受賞し、『恋は魔術師』はフラメンコの踊り手であるクリスティーナ・オジョス(英語版)を題材としている。1988年の『エル・ドラド』はスペイン史上最高の製作費をかけた作品となった[3]。1989年の『La noche oscura』は第39回ベルリン国際映画祭に出品された[8]。