カルロス・エドゥアルド・マランゴン
[Wikipedia|▼Menu]

エドゥー・マランゴン

名前
本名カルロス・エドゥアルド・マランゴン
Carlos Eduardo Marangon
ラテン文字Edu Marangon
基本情報
国籍
ブラジル
生年月日 (1963-02-02) 1963年2月2日(61歳)
出身地サンパウロ
身長180cm
体重75kg
選手情報
ポジションMF
利き足左足

クラブ1
年クラブ出場(得点)
1984-1988 ポルトゥゲーザ 55 (7)
1988-1989 トリノ 22 (2)
1989-1990 ポルト 2 (0)
1990 フラメンゴ 0 (0)
1990-1991 サントス 24 (3)
1991-1992 パルメイラス 16 (3)
1992 サントス 0 (0)
1993-1994 横浜フリューゲルス 67 (18)
1995-1996 ナシオナル・モンテビデオ
1996 コリチーバ 9 (1)
1997 インテル-SP 0 (0)
1997 ブラガンチーノ
代表歴
1987-1990 ブラジル [1]9 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エドゥー・マランゴン (Edu Marangon) こと、カルロス・エドゥアルド・マランゴン(Carlos Eduardo Marangon、1963年2月2日 - )は、ブラジルサンパウロ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(攻撃的ミッドフィールダー)。
経歴

モオカ地区の出身であることからラジオアナウンサーのオズマール・サントスによって付けられた「Boy da Mooca」というニックネームで知られる[2][3]

1984年にポルトゥゲーザでデビューし[3]、1985年にパウリスタン(サンパウロ州選手権1部)に準優勝したときの中心選手だった[3][4]。1987年にはカルロス・アルベルト・シルバが新監督に就任したブラジル代表に招集され、背番号10を背負った[5]。ブラジル代表としては10試合に出場して1ゴールをあげた[6]

1988-89シーズンに2年契約でイタリアのトリノへ移籍[5]ミューレルとチームメートとなった。しかし、プレースタイルがイタリアのサッカーに合わず、次第にベンチ要員となった[7]。最初のシーズンに降格し、2年目のシーズン途中にポルトガルのポルトへ移籍[5]

1990年、フラメンゴへ移籍し、ジーコがつけていた背番号10を引き継いだ[4][3]。フラメンゴでは15試合に出場し、同年途中からはサントスでプレーした[3]。1991年から1992年までパルメイラスに在籍し、54試合9得点[3][4]

1993年、日本の横浜フリューゲルスへ移籍。監督の加茂周ACミランのプレッシングを模範とした戦術「ゾーンプレス」を採用していたが、実際にセリエAのトリノ時代にミランとの対戦経験があり、イタリアにコネクションも持つエドゥーは、一選手という枠を超えて加茂を戦術面において補佐する役割も担った[5]。すぐにチームの中心となって活躍した一方で、冷静さを欠く事もあり、自己中心とも言えるプレーに走ることもあった[8]。Jリーグ第2節、5月19日の鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決めた[9]。1994年1月1日の第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝鹿島アントラーズ戦では、PKで2ゴールを決めるなど、チームの攻撃を牽引して優勝に貢献した[10]。Jリーグでの1年目はリーグトップの131シュートを放ちながらゴール数は6にとどまったが、2年目はフリーキックから多くのゴールを挙げ、ゴール数は12と倍増した[5]。1994年4月2日のジュビロ磐田戦で決めた長距離FKによるゴールは、2013年に「Jクロニクルベスト」でサポーター投票による歴代ベストゴールの8位に[11]、「やべっちFC」で選手や監督が選ぶJリーグ歴代名シーンで6位に選ばれた[12]。また、前述の試合の1週間後に開催された、ベルマーレ平塚戦でも伝説に残る様なカーブを描くロングレンジのFKから得点を挙げている[13][14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef