カルリスタ王位請求者の一覧
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カルロス主義運動のシンボル・ブルゴーニュ十字旗

カルリスタ王位請求者の一覧は、1833年よりスペインの伝統主義者、保守主義者たちが起こしたカルロス主義(英語版)運動によって正統なスペイン王に推戴されたモリナ伯カルロスとその後継者の一覧である。モリナ伯爵家の直系が1936年に絶えると、カルリスタ(カルロス主義運動参加者)たちは誰を次の「カルリスタの王」に奉じるかをめぐって分裂した。
カルリスタ直系(1833年 - 1936年)

モリナ伯爵カルロスとその直系子孫の王号とその順序数は、支持者たちによって付けられたものであり、本人たちはスペイン王であることを宣言したことはない。ただしカルリスタの王たちはスペイン王が使用する称号の一部を使うことで、スペイン王位の正統な継承者たることを示した。

肖像請求者生没年付記
"カルロス5世"
カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボン
1833年9月29日 - 1845年5月18日1788年3月29日 - 1855年3月10日モリナ伯。1845年に息子に譲位した。
"カルロス6世"
カルロス・ルイス・デ・ボルボン・イ・ブラガンサ
1845年5月18日 - 1860年4月23日1818年1月31日 - 1861年1月13日モンテモリン伯。1860年にトゥルトーザイサベル2世女王の政府軍に捕えられた際、王位請求権を放棄した。解放後に再び王位請求者たることを宣言したものの、翌年には死去した。
"フアン3世"
フアン・カルロス・デ・ボルボン・イ・ブラガンサ
1860年4月23日 - 1868年10月3日1822年5月15日 - 1887年11月21日モンティソン伯。自由主義者だったためカルリスタに嫌われ、1868年には息子への譲位を余儀なくされた。1883年、フランスのレジティミスト王位請求者となった。
"カルロス7世"
カルロス・マリア・デ・ボルボン・イ・アウストリア=エステ
1868年10月3日 - 1909年7月18日1848年3月30日 - 1909年7月18日マドリード公。フランスのレジティミスト王位請求者としては、アンジュー公の称号で呼ばれた。
"ハイメ3世"
ハイメ・デ・ボルボン・イ・ボルボン=パルマ
1909年7月18日 - 1931年10月2日1870年6月27日 - 1931年10月9日マドリード公。フランスのレジティミスト王位請求者としては、アンジュー公の称号で呼ばれた。
"アルフォンソ・カルロス1世"
アルフォンソ・カルロス・デ・ボルボン・イ・アウストリア=エステ
1931年10月2日 - 1936年9月29日1849年9月12日 - 1936年9月29日サン・ハイメ公。フランスのレジティミスト王位請求者としては、アンジュー公の称号で呼ばれた。"カルロス5世"の最後の男系子孫であった。

ブルボン=パルマ家(1936年 - )

1936年にモリナ伯爵家最後の当主アルフォンソ・カルロスが死去すると、カルリスタの主流派はアルフォンソ・カルロスによってカルリスタ派の摂政に任命されたブルボン=パルマ家の公子ハビエル(サヴェリオ)を次の後継者とした。カルリスタの政治理念を共有する者の中では、ハビエルはアルフォンソ・カルロスに最も近いブルボン家の親族として、1936年にカルリスタ派の摂政に任じられた。ハビエルは1952年よりカルリスタの王位請求者となることを宣言したが、1975年に息子カルロス・ウゴに譲位した。

1960年代後半から70年代初頭にかけてカルロス主義運動の中には変化が生じ、カルリスタ主流派はハビエルの二人の息子、カルロス・ウゴの支持者と弟シクスト・エンリケの支持者に分裂した。カルロス・ウゴは1960年代に独裁者フランシスコ・フランコに接近し、またチトー主義に心酔して自主管理社会主義を基盤とした社会主義的君主制の樹立を主張し、多くの伝統派カルリスタの支持を失った。こうした動きに対し、弟のシクスト・エンリケはカルロス主義の伝統的・守旧的立場の維持を主張して、カルロス・ウゴと決裂した。1977年、シクスト・エンリケの支持者はハビエルの書いたカルロス・ウゴを廃嫡するとする宣言文を公表した。これに対し、カルロス・ウゴの支持者たちはハビエルによるカルロス・ウゴを後継ぎと認める宣言文を発表した。これ以後、ブルボン=パルマ家内のカルリスタ王位請求は分裂状態にある。

肖像請求者生没年付記
"ハビエル1世"
フランシスコ・ハビエル・デ・ボルボン=パルマ・イ・ブラガンサ
1952年5月20日 - 1975年4月20日
摂政:1936年9月29日 - 1952年5月20日1889年5月25日 - 1977年5月7日モリナ伯。1974年にパルマ公爵家の家督を継承。1975年、長男カルロス・ウゴにカルリスタの王位を譲る。
"カルロス・ウゴ1世"
カルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルマ・イ・ボルボン=ブセ
1975年4月20日 - 2010年8月18日1930年4月8日 - 2010年8月18日マドリード公。1977年にパルマ公爵家の家督を継承。1979年、スペイン王フアン・カルロス1世統治下のスペインに帰化。
"カルロス・ハビエル1世"
カルロス・ハビエル・デ・ボルボン=パルマ・イ・オランヘ=ナッサウ
2010年8月18日 - 1970年1月27日 -現在のパルマ公爵家当主。マドリード公。

シクスト派(1975年 - )

カルロス・ウゴの弟シスクト・エンリケは1977年よりカルリスタの摂政を自任しており、カルリスタ内の伝統主義者たちの支持を受けている。彼はまた、その兄カルロス・ウゴが正当な王位継承者ではあったものの、カルロス・ウゴが社会主義者であった以上は王位を継承できないと考える人々からも支持を得ている。シクスト・エンリケはカルリスタの王位を請求せず、カルロス・ウゴの息子たちがいずれカルリスタ伝統派の価値観を受け入れることを切望している。

肖像請求者生没年付記
シクスト・エンリケ・デ・ボルボン=パルマ・イ・ボルボン=ブセ
(摂政)
1977年5月7日 - 1940年7月22日 -アランフエス公。

1936年以後の対立王位請求者
バルセロナ伯(1957年 - 1977年)

1936年にサン・ハイメ公アルフォンソ・カルロスが死去して以来、サリカ法に基づくブルボン家の長子権者は元スペイン王アルフォンソ13世であった。アルフォンソ13世は公認されたスペイン王であったが、1931年に退位させられていた。アルフォンソ13世は"カルロス5世"の弟フランシスコ・デ・パウラの男系の嫡曾孫である。アルフォンソ・カルロスの死をカルリスタとイサベル派に分裂していたスペインの君主制支持者を合同させる機会だと考えた少数派のカルリスタにより、アルフォンソ13世はカルリスタの王位継承者として支持された。

アルフォンソ13世の長男アストゥリアス公(のちコバドンガ伯)アルフォンソと次男セゴビア公ハイメ(後述)は、1933年にそれぞれスペイン王位継承権を放棄しており、またアルフォンソは1938年に死去していた。アルフォンソ13世は1933年に三男のバルセロナ伯フアンをスペイン王位継承者に指名した。バルセロナ伯は1957年、王家の「合同」を望む一部のカルリスタの支持を受け入れたが、1975年に長男のフアン・カルロス1世がスペイン王位に就いたこともあり、1977年にスペイン王位に対する請求を取り下げた。

肖像請求者生没年付記
"フアン4世"
フアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ
1957年12月20日 - 1977年5月14日1913年6月20日 - 1993年4月1日バルセロナ伯。1977年にスペイン王位請求権を放棄。死後スペイン王位を追尊された(追号はフアン3世)。

セゴビア公(1964年 - 1969年)

アルフォンソ13世の次男セゴビア公ハイメは、1933年に王位継承権を放棄してスペイン王家の家督を弟のバルセロナ伯フアンに譲っていたが、1949年に王位継承権を再主張、1964年にカルリスタ派の支持を受け入れることを宣言し、ハイメ4世と称した。しかしフランシスコ・フランコがバルセロナ伯の長男フアン・カルロスをスペイン王位継承者に決めると、ハイメは長男アルフォンソの勧めに従い、フアン・カルロスを正統なスペイン王として支持し、1969年7月19日にスペイン王位請求を取り下げた。これ以降ハイメ及び後継者はカルリスタの王位請求を行っていない。ハイメを支持したカルリスタはごくわずかだったが、支持者の中には"カルロス7世"の子供の中で最後まで生き延びていたアリシア・デ・ボルボン(1876年 - 1975年)がいた。


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