カルメン・フランコ_(初代フランコ女公爵)
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カルメン・フランコ
Carmen Franco
初代フランコ女公爵
1950年

全名マリア・デル・カルメン・フランコ・イ・ポロ
出生 (1926-09-14) 1926年9月14日

死去 (2017-12-29) 2017年12月29日(91歳没)

配偶者10代ビリャベルデ侯クリストバル・マルティネス=ボルディウ
子女2代フランコ女公カルメン・マルティネス=ボルディウ
11代ビリャベルデ侯フランシスコ・フランコなど
家名フランコ家
父親フランシスコ・フランコ
母親カルメン・ポロ
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マリア・デル・カルメン・フランコ・イ・ポロ(スペイン語: Maria del Carmen Franco y Polo、1926年9月14日 - 2017年12月29日)は、スペインの貴族。初代フランコ女公爵総統フランシスコ・フランコの一人娘であり、第10代ビリャベルデ侯爵クリストバル・マルティネス=ボルディウの妻。フランシスコ・フランコ財団(スペイン語版)名誉理事長などを歴任[1]
経歴

1926年9月14日アストゥリアス州オビエドフランシスコ・フランコカルメン・ポロの間の娘として生まれた[2]。母と同じカルメンと命名されたが、カルメンシータと呼ばれた[3]。軍人だった父の勤務先に従って各地を転々としたが、フランコが陸軍参謀総長に任命された1935年からマドリードで暮らした[2]

1936年に左翼連合政権「人民戦線」が誕生するとフランコは反乱軍の指揮を執ってスペイン内戦を戦った。フランコの妻と娘ははじめドイツの汽船に乗って[2]フランスに亡命していたが、1936年9月に海路でポルトガルへ行き、スペイン西部カセレスに入り、フランコと合流した[4]。同年10月1日のフランコの国家元首と大元帥への就任式にはフランコの妻と娘の姿もあった[5]。その後も1939年までスペイン内戦は続いたが、その間は彼女と母はサラマンカにある司教の宮殿で暮らした(カトリック教会はフランコを支持していた)[4]

1939年3月28日マドリードが陥落して「人民戦線」政府が崩壊し、フランコがスペインの統治者となった後、マドリードの北西20キロの所にあるエル・パルド宮殿(スペイン語版)がフランコ一家の居城となり、そこで暮らした[6]

彼女はイギリスのエリザベス王女(後の女王エリザベス2世)をお手本とした教育を受けた[7]

1950年8月1日に外科医で貴族の第10代ビリャベルデ侯爵クリストバル・マルティネス=ボルディウと結婚[2][7]。結婚式は壮麗に行われ、彼女は高価な宝石入りのダイアデムを身に着けていた[8]。夫妻は7人の子供を儲けた[2][9]

1975年11月20日に父のフランコ総統が死去し、フランコの遺言によりフアン・カルロス1世がスペイン王に即位して王政復古した。フアン・カルロス1世は即位直後の11月26日にカルメンをフランコ女公爵に叙した[2][1]

1976年に創設されたフランシスコ・フランコ財団(スペイン語版)の名誉理事長などを務めた[1]

2008年11月には歴史家のヘスス・パラシオス・タピアス(スペイン語版)とスタンリー・ジョージ・ペイン(英語版)とともに「Franco, mi padre(我が父フランコ)」を出版した。それによれば父フランコは彼女にスペイン内戦について話したことはなかったといい、「家では戦争や暴力の話はしない。私は普通の生活を望んでいた」と語っている。また彼女にとって父は常に「並外れた人物」であったという[2]

2017年12月29日に死去した。フランコ公爵位は長女のマリア・デル・カルメン・マルティネス=ボルディウ・イ・フランコが継承した。


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