この項目「カルミネ・クロッコ」は途中まで翻訳されたものです。(原文:イタリア語版Carmine Crocco 17:04, 27 apr 2011(CEST, UTC+2)
)カルミネ・クロッコ
生誕 (1830-06-05) 1830年6月5日
バシリカータ、ヴルゥトゥーレ地方リオネーロ村(イタリア)
死没1905年6月18日(1905-06-18)(75歳)
トスカーナ、リヴォルノ地方ポルトフェッライオ刑務所
別名Donatello
テンプレートを表示
カルミネ・クロッコ(Carmine Crocco, 1830年6月5日?1905年6月18日)、別名ドナテッリ(Donatello)は19世紀イタリア統一直後、南イタリア山岳地帯の盗賊団を統率して新政府勢力に抵抗した山賊またはテロリスト(イタリア語で ブリガンテ:brigante)の中で最も有名な人物。現在のバシリカータ州北部のヴルゥトゥーレ?メルフェーゼ地方を主な勢力範囲としたが、その影響力はカンパーニア州のイルピニア地方、プーリア州のカピタナータ地方、バーリ地方にまで及び、イタリア南部広域に亘って軍事行動および略奪行為を行った。
貧しい身分から2千人を配下に従えるようになり、「無頼の大将(Generale dei Briganti)」「総大将(Generalissimo)」と呼ばれた。クロッコはイタリア統一戦争当初はガリバルディの軍に加わったが、後に翻って両シチリア王国のレジスタンス運動に組み込まれる。約4年間の略奪と逃亡生活の間に彼はこの時代で最も恐れられた無頼の輩となり、その首には2万リラの賞金がかけられた。クロッコは人殺しの山賊であると同時に民衆の英雄とも目されており、ことに反リソルジメント主義者にとっては現在もなお象徴的存在と見なされている。
「brigante ブリガンテ」は先述のように「山賊」「追いはぎ」などの無法者・犯罪者を指すイタリア語だが、カルミネ・クロッコを筆頭に19世紀イタリア統一直後の南イタリアを背景に語られる「ブリガンテ:山賊」たちは「反統一」「反サボイア」「反リソルジメント」の立場で新政府に抵抗したテロリストたちであることに注意する必要がある。
(注)本稿はイタリア語版 Carmine Crocco を翻訳したものである(2011年5月1日現在)。イタリア語版の引用注は省略したが、イタリア語版に収録されている参考文献はすべて本稿最終項目に転載した。
生涯
幼年期クロッコの生家
カルミネ・クロッコは現在のバシリカータ州ヴルゥトゥーレ地方リオネーロ・イン・ヴルトゥレに生まれた。当時の人口は約1万人。別称ドナテッロは彼の父方の祖父ドナテッロ・クロッコに由来すると言われる。父フランチェスコは羊飼い、母マリア・ジェラルダ・サントマウロは 農場管理人だったと言われる。カルミネは5人兄弟の2番目で、貧しいながらも平穏かつ勤勉な幼年期を送った。半島戦争(スペイン独立戦争)に出兵し左足を失った叔父から戦争の話を聞き、読み書きを習ったという。
1836年4月のある朝家の中に猟犬が入って来てウサギに襲いかかり家の外に引きずり出して噛み殺したので、カルミネの兄ドナートがこの犬を棍棒で打ち殺すということがあった。運の悪いことに、これが地主の飼い犬であったため、ドナートはこれを知った地主にひどく鞭打たれることになった。妊娠中の母がこれに割って入り容赦を乞うたが、地主に腹を強く蹴られて腹の子供を堕すことになった。また、この数日後にはカルミネの父が地主に対する殺人未遂で逮捕・投獄されてしまった。無実が証明されたのは2年半後であった。 この一連の災いのために母は精神を病んだ。僅かばかりの家財は売り払われ、子供たちは親戚にあずけられた。 父の投獄と母の発病によりカルミネは兄ドナートと共にプーリアに羊飼いとして働きに出された。発作的に故郷に戻ったとき、母は既に彼を識別できなくなっており時を経ずして収容先で死んだ。1845年、ようやく14歳になったばかりの頃、水嵩の増したオファント川を無謀に渡ろうとしていたアテッラの貴族ドン・ジョヴァンニ・アクイレッキアの命を助けた。謝礼として贈られた50ドゥカーティで故郷に帰り、今度はドン・ジョヴァンニの義理の兄弟ドン・ピエトロ・ジニステッリの助力で父の釈放を実現させた。しかし、家に戻った父は衰弱しており、結局は彼が一家を支えるためにドン・ビアージョ・ロヴァーリオの農場に小作に出なければならなかった。 1847年5月のある日、カルミネは一家の災いの種であった地主ドン・ヴィンチェンツォの息子ドン・フェルディナンドと知り合うが、この息子は父とは異なりむしろ父の過誤を悔いて若いカルミネに農園管理を託そうとした。しかし、カルミネはこれを断り、むしろ3つの古墳を借り受けることを望んだ。これを利用して200スクードの儲けを出し、それで徴兵義務を免れようとしたためである(両シチリア王国には兵役を納付金で代える制度があった)。ドン・フェルディナンドはこれに承諾したが、1848年3月15日ナポリにてスイス兵に殺害されたために、二人の取り決めは反故となった。かくしてカルミネはフェルディナンド2世軍、第一砲兵連帯に配属されてパレルモとガエータに駐屯した。彼の軍隊生活は長く続かなかった。仲間を殺害し、軍隊から逃走せねばならなくなったためである。 カルミネが出征してから一家の趨勢は18歳の妹ロジーナの手に委ねられることになるが、彼女はやがてペッピーノ・カルリなる地元有力者からしつこく言い寄られるようになった。
思春期
復讐と逃亡