カルマト派
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カルマト派 (カルマトは、アラビア語: ????????‎, ラテン文字転写: al-Qar?mi?a) は、イスラム教シーア派の分派であるイスマーイール派の一分派[1][2][3][4]。9世紀末から11世紀にかけて活動した[1][2]。9世紀のイスマーイール派はアッバース朝の支配領域の各地で秘密裏に革命運動を展開していた[5]:180-186。カルマト派と呼ばれる集団は、もともとはイラク南部サワード地方(英語版)のイスマーイール派教宣組織の責任者であったハムダーン・カルマトが組織したグループのことを指す[3][4]。しかし、シリアのサラミーヤの教宣組織の本部が899年に教義の変更を宣言すると、ハムダーンはこれを認めず反抗し、同様に教義変更に従わなかった他のイスマーイール派信徒集団もカルマト派と呼ばれるようになった[3]。バハラインのカルマト派は11世紀ごろまで政治的に独立した勢力を形成し、930年にメッカを占領してカアバ黒石を持ち去るという事件を起こした[1][6]。カルマト派の信条には、ファーティマ朝系イマームによる教義の変更前の初期イスマーイール派の信条が保たれていると考えられている[5]:180-186。アブー・ハーティム・ラーズィーやアブー・ヤアクーブ・スィジスターニーなどイスマーイール派思想史において重要な思想家の中には、もともとはカルマト派に所属していた者が何人かいる[3]
初期イスマーイール派

8世紀のシーア派(ただしザイド派は除く)ではムハンマド・バーキルジャアファル・サーディクを中心に教義の整備が行われ、啓典の秘教的解釈やマフディー思想、イマームの無謬性や指名理論といった特徴的な主張を唱えられるようになった[5]:170-172。このような独特のイマーム論を唱えるようになった集団をイマーム派と呼ぶ[5]:170-172。イマーム派ではマフディー思想と指名理論が組み合わさったため、イマームの死亡時に複数の次代イマーム候補を巡る分派活動が促進されることとなった[5]:140。

765年にジャアファル・サーディクが亡くなった[5]:140。ジャアファルは生前、息子の一人であるイスマーイールを後継イマームとして指名していたとされるが、イスマーイールはジャアファルより先に亡くなっていた[5]:140[7]。このため、指名はいまだ有効であると主張するイスマーイール派や、その他のグループへと分派した[5]:140[7]。その他のグループとしては、後継イマームとして、存命の息子のうち最年長のアフタフを支持するアフタフ派、ムーサーを支持するムーサー派、ジャアファルは死んだのではなく姿を隠しただけでありいつの日かマフディーとして再臨すると主張したナーウース派などがある[5]:140[7]。カルマト派はこのときのイスマーイール派の100年後の分派である[5]:180-186。

765年に分派として成立して100年間、イスマーイール派の活動、活動場所、教義の詳細は不明である[5]:180-186。870年頃、再び歴史の表舞台に姿を現したイスマーイール派は、ムハンマド・イブン・イスマーイールの代理人を称するアブドゥッラーを中心に、イラン西南部のフーゼスターン地方でアッバース朝打倒を目指す革命運動を展開しはじめた[5]:180-186。8世紀のイスマーイール派は、イスマーイールは死んだのではなく姿を隠しただけであると主張する派と、後継イマームの権利がムハンマド・イブン・イスマーイールに受け継がれたと主張する派があったようであるが[7]、9世紀の段階では前者が後者に吸収されたようである[5]:180-186。
名称

「カルマト派」という呼び名は、907年にアッバース朝に対して反乱を起こしたイラク南部のサワード地方の反乱組織に対する呼称として、親アッバース朝側からの他称である[4]。「カルマト」が何に由来するかはよくわかっていない[8]。カルマト派を創設したというハムダーン・カルマトという人物に由来するとする文献もあり[2][9]、これは単なるエポニムであるという説もあるが、アラビア語の「カルマト」は、おそらくアラム語の「短足の」「赤目の」「秘密の教師」などの言葉に由来している[10][11][12]


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