国 ウクライナ
州庁所在地ウージュホロド
面積
- 総計
- 陸地
- 水域全ウクライナ第24位
12,777 km²
km²
km² (%)
人口(2006年)
- 総計
- 人口密度全ウクライナ第17位
1,244,476人
97.34人/km²
地区6
領域共同体64
市町村総数
- うち市の数
- うち町の数
- うち村の数609
11
19
579
州知事ヴィクトル・ミキタ(ウクライナ語版)
ISO 3166-2:UAUA-21
電話番号コード+380-31
公式サイト ⇒合同庁
ザカルパッチャ州、ザカルパート州[1](ザカルパッチャしゅう、ザカルパートしゅう、ウクライナ語: Закарпатська область ザカルパーツィカ・オーブラスチ)は、ウクライナの最も西に位置する州である。州都はウージュホロド。州名は、州の位置する地域の伝統的な名称からとられた。
歴史的にカルパティア・ルテニアと呼ばれた地域の主要部である。 この地域は、ウクライナ人が多く住む地方であり、西ウクライナの一部でもあった。しかしカルパティア山脈という障壁により、オーストリア帝国、ポーランド王国、ハンガリー王国、チェコスロバキア共和国などウクライナと異なる国家に統治され続けた。 9世紀頃にはモラヴィア王国、10世紀以降にはブルガリア帝国、12世紀にはウラジーミル2世モノマフによりキエフ大公国、13世紀にはベーラ4世によってハンガリー王国の版図に組み込まれた。このためカルパティア・ルテニアは聖イシュトヴァーンの王冠の地の一つとして、ハンガリーの固有の領土であると認識されるようになった。 16世紀からはハンガリーはハプスブルク帝国の統治下となったが、まもなくオスマン帝国の支配下となった。18世紀以降はオーストリア帝国の一部として統治された。オーストリア=ハンガリー帝国の成立後は帝国内のハンガリー王国の一部として統治された。ハンガリー王国時代には、ベレグ
歴史
1918年、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北し、ロシア帝国もロシア革命で崩壊したため、帝国支配下の民族が分離独立を始めた。フーストを拠点にするウクライナ人とルシン人の勢力は西ウクライナ人民共和国に合流し、ドニプロ地方に成立したウクライナ人民共和国との合同を企図した。しかし、ポーランド・ウクライナ戦争により西ウクライナ人民共和国はポーランドに敗れ、結局合同は実現しなかった。サン=ジェルマン条約とトリアノン条約の結果、越カルパート地域はチェコスロバキアの領域になった。
チェコスロバキア時代には、資本主義経済が発達した。ミュンヘン会談後にカルパート・ウクライナはチェコスロバキア内での自治が認められた。そして、軍事組織「カルパート・シーチ」が設置されるなどこの地域のウクライナ化が進められた。
1939年3月15日には、選挙によって圧倒的な支持を得たセイム(議会)がカルパート・ウクライナの完全な国家的独立を宣言した。セイムは憲法を採択し、国号を「カルパート・ウクライナ」と定め、国家体制を「大統領制共和国」とし、公用語をウクライナ語に定めた。国旗と国章、国歌はウクライナの伝統的な青・黄旗とトルィズーブ「ウクライナは滅びず」とされた。大統領には、アウグスティーン・ヴォローシンが就任した。しかし、3日後の3月18日にはカルパート・ウクライナはハンガリー軍によってほとんどの領域を占拠され、国家首脳部はルーマニアへ亡命、国は亡びた。