カルヌスの戦い
戦争:第二次ポエニ戦争
年月日:紀元前215年秋
場所:サルディニア島カルヌス(現在のクーリエリ)
結果:ローマの勝利
交戦勢力
カルタゴ共和政ローマ
指導者・指揮官
禿のハスドルバル、 ハンプシコラ †ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス
戦力
歩兵15,000
騎兵1,500
サルディニア人(人数不明)
戦象(頭数不明)歩兵20,000(2個ローマ軍団、2個同盟国軍団)
騎兵1,200
損害
死傷13,500;
戦死12,000、捕虜1,500(ハスドルバル含む)[1]不明
第二次ポエニ戦争
サグントゥム
ローヌ川
アルプス
ティキヌス
トレビア
キッサ
トラシメヌス湖畔
エブロ川
アゲル・ファレルヌス
ゲロニウム
カンナエ
第一次ノラ
デルトサ
第二次ノラ
カルヌス
カルヌスの戦い(カルヌスのたたかい)またはカラリスの戦い(カラリスのたたかい)は、第二次ポエニ戦争中の紀元前215年に、サルディニア人の反乱を支援するために、カルタゴ軍がサルディニア島に遠征し、ローマ軍と戦った戦闘。カルタゴ軍の指揮官は「禿のハスドルバル」で、はぼ同程度の規模の法務官(プラエトル)ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスのローマ軍と、カルヌス(現在のクーリエリ)とカラリス(現在のカリャリ)の間で戦った。ローマ軍はカルタゴ軍を撃滅し、その後に行われた海戦でもローマ海軍が勝利した。 カンナエの戦いの敗北以降、イタリア南部のいくつかの都市はローマとの同盟から離脱し、カルタゴ側についていた。ハンニバルの軍はカンパニアで活動しており、ハンノが率いる別のカルタゴ軍がブルティウム(現在のカラブリア州)で活動していた。ローマもいくつかの軍を出動させてはいたが、ハンニバルとの直接戦闘は避けて、可能な時にその同盟軍を攻撃していた。 イベリア半島では、ハンニバルの弟であるハスドルバル・バルカが、エブロ川河口の海戦の敗戦以来、スキピオ兄弟との小競り合いを繰り返していた。紀元前216年になると、カルタゴ元老院はハスドルバルに援軍を送り、イタリアへ侵攻するように命じた。アフリカでは、やはりハンニバルの弟であるマゴ・バルカが歩兵12,000、騎兵1,500および戦象20からなる軍を率い、ハンニバルに合流するように命令されていた。 ローマは紀元前237年以来、サルディニアの原住民としばしば衝突していた。紀元前216年には反乱の機は熟していた。サルディニアにはローマ軍一個軍団が駐屯していたが、疾病で戦力は低下していた。法務官クィントゥス・ムキウス・スカエウォラもまた病気を得ていた。ローマからの給与も補給も不規則であり、サルディニアの部族長であるハンプシコラはカルタゴに援助を求めた。
戦略的状況