公用語ペルシア語、ウルドゥー語、タミル語、カンナダ語
首都アルコット、マドラス
ナワーブ
1710年 - 1732年サアーダトゥッラー・ハーン
1744年 - 1749年アンワールッディーン・ハーン
1749年 - 1795年ムハンマド・アリー・ハーン
1824年 - 1855年グラーム・ムハンマド・ガウス・ハーン
変遷
カルナータカ太守の設置1692年
サアーダトゥッラー・ハーンが太守となる1710年
アンワールッディーン・ハーンが太守となる1744年
ムハンマド・アリー・ハーン が太守となる1749年
全権・全領土の接収1801年
年金の支払い停止1855年
通貨ルピー
現在 インド
カルナータカ太守(カルナータカたいしゅ、タミル語: ??????? ?????, ウルドゥー語: ???? ??????, 英語: Nawab of the Carnatic)は、ムガル帝国の南インド、カルナータカ地方(現在のアラビア海に面したカルナータカ州とは違い、タミル地方とアーンドラ地方の一部を指す)の地方長官、つまり太守(ナワーブ)。アルコットに首府を置いたことから、アルコット太守あるいはアルコットの代官(Nawab of Arcot)とも呼ばれる。 1681年以降、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブはデカンに遠征し(デカン戦争)、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国を滅ぼし、マラーターを南に押し返した。その結果、帝国の領土は南インドにまで広がった。 アウラングゼーブは南インドにまで至る広大な版図を統治するため、1692年にカルナータカ太守の役職を設置することを決め、ズルフィカール・ハーンを初代カルナータカ太守に任命し、アルコットを首府に統治させた。 1707年にアウラングゼーブが死ぬと、ムガル帝国の広大な領土では反乱が相次ぎ、1713年にムガル帝国内でジャハーンダール・シャーとファッルフシヤルが帝位をめぐって争うと、カルナータカ太守サアーダトゥッラー・ハーン(彼は1710年にカルナータカ太守に任命された人物である)は帝国から独立し、地方政権を樹立した(ナワーヤト朝)。 これにより、南インドの広大な版図がムガル帝国から消え去り、この地に帝国の支配は及ばなくなってしまった。とはいえ、歴代の君主は名目上は帝国の主権を認めていた。
歴史
設置
独立晩年のアウラングゼーブ
サアーダトゥッラー・ハーンの治世で注目されるのは、ムガル帝国の許可なしに、甥のドースト・アリー・ハーンを後継者に指名したことだった。また、1724年には南インドのほかの勢力とも連携して、マイソール王国の首都シュリーランガパッタナを包囲している[1]。
マラーターの侵攻アーサフ・ジャー
カルナータカ太守は南インドに広大な領土を領有したため、マイソール王国、タンジャーヴール・マラーター王国、マドゥライ・ナーヤカ朝をはじめとする諸勢力と争った。