「カルタゴ滅ぶべし」(カルタゴほろぶべし、ラテン語: Carth?g? d?lenda est[1](カルターゴー・デーレンダ・エスト))、または「カルタゴは滅ぶべきであると考える」(ラテン語: C?nse? Carth?ginem esse d?lendam(ケーンセオー・カルターギネム・エスセ・デーレンダム))は、ラテン語の言い回しであり、ポエニ戦争を戦ったカルタゴ(Carth?g?)に対して共和政ローマのマールクス・ポルキウス・カトー・ケーンソーリウス(大カトー)が演説の最後に言ったとされる言葉であるが、古代の史料にはっきりとそう書かれている訳ではない[1]。 カルタゴへの憤怒と、子孫への憂慮から、 これと似た表現は、キケロー『大カトー・老年について』に見られるものが最古であろうと思われる[1]。いかにも彼の言いそうなことではあるが、「滅ぼすもの(d?l?re
起源
大カトーは元老院の議会のたびに、
カルタゴは滅ぼされるべきだと(Carth?ginem d?lendam)叫んでいた。
そんなある日、彼は議場にカルタゴの特産であるイチジクを持ってきた。
「皆に尋ねるが、これはいつ採れたものだと思うかね?」
プルタルコスの『対比列伝』「大カトー」でも上記のイチジクのエピソードは出てくるが、大カトーは「私が思うに、カルタゴも耐える(もしくは免れる)べきだ」と言っており、それに対してスキピオ・ナシカ・コルクルムが反論するというもので、ある程度の脚色が窺える[4]。その後のフロルスや2世紀のアッピアノスらも似たようなことを書いており、4世紀のアウレリウス・ウィクトル(英語版)に至って、「Cat? Carth?ginem d?lendam c?nsuit.(カトーはカルタゴは滅ぼされるべきであると述べた)[注釈 4]」の表現が見られることから、帝政ローマ期の白銀時代にこの形に定まったのではないかと考えられ、近年でも主戦論者によって唱えられている[5]。
背景詳細は「第三次ポエニ戦争#背景」を参照
カルタゴは、北アフリカ(現チュニジア)に位置するフェニキア人の都市国家であり、また海洋国家であった。ローマは、第一次、第二次ポエニ戦争においてカルタゴに勝利したが、ハンニバルのアルプス越えを許し、幾度も苦しめられた。紀元前216年のカンナエの戦いがその最たる例である。
第三次ポエニ戦争(紀元前146年)に勝利したローマは、カルタゴをすべて破壊し尽くし、生き残った住民を奴隷として売り飛ばしたとも言われる。更にカルタゴが再興することのないよう、跡地に塩を撒いたとも言われるが、これは後世の創作だと考えられている。
脚注
注釈^ 『ハミルカル』2.1、Carthago, nisi cum deleta est
^ 49.3、Catone suadente bellum et ut tolleretur delereturque Carthago
^ 1.13.1、Ante triennium quam Carthago deleretur
^ De viris illustribus 47.8.
出典^ a b c Little, p. 429.
^ Little, pp. 429?431.
^ Little, pp. 431?432.
^ Little, pp. 432?433.
^ Little, pp. 433?435.
参考文献
Charles E. Little (1934). “The Authenticity and Form of Cato's Saying 'Carthago Delenda Est,'”. The Classical Journal (CAMWS) 29 (6): 429-435. JSTOR 3289867.
関連項目
カルタゴ
カルタゴの和平