カリマコス(またはカッリマコス、カルリマコス、古希: Καλλ?μαχο?, Kallimachos, 英: Callimachus, 紀元前310年/紀元前305年 - 紀元前240年)は、ヘレニズム期の詩人、批評家である。批評家を兼ねる詩人の初期の1人であり、ヘレニズム期の学問を代表する人物。アレクサンドリア図書館の図書館員でもあったが、主要な司書になったことはなく、図書館が所蔵するすべての本のカタログ(図書目録)を作る任務に就いた。そして出来上がった『ピナケス』は120巻の長さで、図書館の蔵書を残らずすべて年代順にまとめ、ギリシア文学史に関する後の研究の基盤となった。ファラオのプトレマイオス2世とプトレマイオス3世がパトロンで裕福に暮らした。 カリマコスはギリシアの植民地キュレネ(現リビア)の高貴なギリシア人家庭に生まれ育った。両親はMesatme(またはMesatma)家とバットス家の出だった。バットス家という名前は最初のキュレネ王バットス1世(en:Battus I of Cyrene
出自
カリマコスはシラクサ出身のユーフラテスというギリシア人の娘と結婚した。子供がいたかどうかはわかっていない。またカリマコスにはMegatimeという姉妹もいたが、彼女についてわかっていることは、StasenorusもしくはStasenorというキュレネ人と結婚し、カリマコス(若カリマコス)という子供を生んだことくらいで、若カリマコスも詩人になり、『島』という詩を書いた。
カリマコスはそれからアテナイで教育を受け、北アフリカに戻ると、アレクサンドリアに住み着いた。 カリマコスはエリートかつ博識で、「すべての陳腐なものを忌み嫌う」と主張した。カリマコスの作品で最もよく知られているのは、短い詩、エピグラムである。ヘレニズム時代、ギリシア語で書かれた詩の主な傾向は、ホメロスを手本とした叙事詩を否定することだった。その代わりにカリマコスは、ホメロスの通ったすり減らされた轍を行くのではなく、「人跡未踏の野を馬車で駆る」よう詩人たちに訴えた。カリマコスが理想としたものは、短いが、構成も言葉選びも慎重を期した詩の形式だった。カリマコスの『アイティア
作品
叙事詩に敵対するカリマコスの強硬な姿勢は、叙事詩が好きで『アルゴナウティカ』を書いた若弟子・ロドスのアポローニオスとの長く辛辣な確執を招き、30年にわたってトゲのある批評・侮辱・ad hominemの応酬が続けられた。初期のアレクサンドリア図書館長をリストアップしたオクシリンコス・パピルスの断片からわかっていることは、プトレマイオス2世は一度もカリマコスをその職に任用したことがない代わりに、弟子だったロドスのアポローニオスは任用したことである。ピーター・グリーン(英語版)ら一部の歴史家は、そのことも二人の詩人の長きにわたる確執のせいではないかと推測している。
カリマコスは「大きな本」の反対者であったが、『スーダ辞典』はカリマコスの書いた作品は800冊ある(もしかした誇張かも知れない)と書いていて、多量の小さい本であれば許容したことを示唆している。それらのうち現存しているのはわずかに、6つの(ギリシアの神々への)讃歌、64のエピグラム、いくつかの断片くらいである。『ヘカレー(英語版)』の断片は、カリマコスの数少ない叙事詩的テーマの長大な詩の一つで、これはRainer papyriの中に発見された。『アイティア(英語版)』[1]もカリマコスの稀な大作だが残っているのはぼろぼろになったパピルスの断片と後世の著述家の引用のみである。これは4巻から成るエレゲイア詩集で、ギリシアの都市、はっきりしない宗教儀式、その奇妙さゆえにチョイスされたユニークな地方の伝統[2]、その他の習慣の縁起が歌われている。少なくとも最初の3巻はムーサに質問する形式をとっている。具体的には、
なぜパロス島でカリスを信仰するのに笛も王冠も使わないのか?[3]
なぜアルゴスでは一月を「lambs(子羊)」と言うのか?[4]
なぜレウカスではアルテミスの像の頭に乳鉢を乗せているのか?[5]
一連の質問は断片から再構築することが可能である[6]。俗に『Coma Berenices(ベレニケの髪の毛)』と呼ばれる『アイティア』の1節は、カトゥルスによってパピルスに残っていたものから再構築され、ラテン語版が世に広まった[7]。
現存している讃歌は非常に博学で、何人かが自然でなく人工的だと評するスタイルで書かれている。一方、エピグラムは広く高い評価を受けていて、『ギリシア詞華集』にも収められている。
クインティリアヌスによると[8]、カリマコスはエレゲイア詩の第一人者だったということだ。