カリブ海の海賊_(歴史)
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この項目では、カリブ海の海賊の歴史について説明しています。ディズニーの映画シリーズについては「パイレーツ・オブ・カリビアン」を、ディズニーパークにあるアトラクションについては「カリブの海賊」をご覧ください。
中央アメリカとカリブ海の地図[1] 18世紀海賊の旗、"キャラコ・ジャック"・ラカムのものとされている

カリブ海の海賊(カリブかいのかいぞく、: Piracy in the Caribbean)の時代は、16世紀に始まり、1830年代カリブ海植民地を持つ西ヨーロッパ諸国や北アメリカの国が海賊に対する戦いを始めたときに消えていった。海賊の最盛期は1660年代から1730年代だった。カリブ海には、ジャマイカポート・ロイヤル[2]ハイチトルトゥーガ島バハマナッソー[3]など海賊が利用できる海港があったので、海賊が栄えた。
海賊が生まれた経過.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "カリブ海の海賊" 歴史 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年5月)
16世紀に海賊の餌食にされた主要貿易ルート: スペインの宝物艦隊は1568年からマニラ・ガレオン船でカリブ海とスペインセビリアを結び(白線)、ポルトガルのインド艦隊は1498年からポルトガルとインドゴアを結んだ(青線)バーソロミュー・ロバーツ、ベナンのウィダーで、背景は自船と捕獲した商船

海賊は、海戦で使役された元水夫が多かった。フランス語の"boucan"(火の上にかざされた木枠)の上の"boucanier"(肉を燻すという意味)から派生したバッカニアと呼ばれた[4]。煙を出す火およびブーカンの上に島に残っていた牛の肉とを撒き餌にして、島の漂流者が沖を行く船を交易のために近寄らせたように、海賊が船を捕まえることができたからだった。海賊は、植民地を支配する権力者によって住んでいた島を追われたので、海上で他の船舶を襲撃し続けて新しい生き方をしていくようになった。ヨーロッパの商船を攻撃し(特にカリブ海からヨーロッパに向かうスペイン船隊)、その貴重な荷物を捕獲するという、船乗りにとって魅力はあるが、法に触れる機会を作りだした。これは16世紀に始まった。海賊行為は、例えばフランスフランソワ1世(在位1515年-1547年)の時代には、植民地権力者によって「合法」とされた。これは、大西洋インド洋で領海政策を確立したライバル国の海上貿易を弱めることを期待したものだった。この合法的な海賊行為は私掠と呼ばれた。1520年から1560年、フランスの私掠船だけでスペイン王国と新世界における広大なスペイン帝国の商業圏に戦いを挑んだ。後にはイングランドオランダの私掠船も加わった。以下はウェールズの海賊からの引用であり、18世紀カリブ海の海賊に対する動機を示している。

「まっとうな仕事は、食い物は粗末だし、賃金は安くて仕事はきつい。この仕事(海賊)はお宝はたんまり手に入るし、楽しくて簡単、そして自由で力がある。こんなうまい仕事、やらずにいられる奴がいるのかい? 最悪の時は縛り首にもなるだろうが、「人生は太く短く」が俺のモットーだ。—海賊船長バーソロミュー・ロバーツ[5]

カリブ海は、1492年にクリストファー・コロンブスが新世界を発見して以来、ヨーロッパの貿易と植民地化の中心になった。1493年、トルデシリャス条約によって、カーボベルデから370リーグ (2.193 km) 西の南北方向線(子午線)で、ヨーロッパ以外の世界をスペインとポルトガルの間で山分けした[6]。このことでスペインはアメリカ大陸の支配権を得、後にこの位置づけは同じくらい強制力のない教皇勅書教皇子午線)によって補強された。スパニッシュ・メインにおいて、重要な初期開拓地は現在のコロンビアカルタヘナパナマ地峡ポルトベロパナマシティキューバ南東海岸のサンティアゴイスパニョーラ島サントドミンゴだった。16世紀、スペインはヌエバ・エスパーニャメキシコ)のサカテカスペルーポトシ(実際には現在のボリビアにある)にあった鉱山から驚くべき量の銀塊を掘りだした。新世界から旧世界に運ばれたスペインの銀が、海賊や、フランソア・ル・クレールやジャン・フルーリーなどフランスの私掠船を惹きつけた。どちらもカリブ海や大西洋にいて、カリブ海からセビリアに向かうルートにあった。

これと闘うのは常に危険が伴った。1560年代、スペインは護送船団方式を採用した。スペインの宝物艦隊すなわち「フロータ」は毎年スペインのセビリア(後にはカディス)から乗客、兵士およびヨーロッパで製造された商品を新世界にあるスペイン植民地に運んだ。この荷物は利益が出たが、実際には船隊のための錘を形成したに過ぎず、真の目的は1年間に採掘された価値ある銀をヨーロッパに運ぶことだった。旅の最初の段階はペルーやヌエバ・エスパーニャの鉱山で採れた銀を、シルバー・トレインと呼ばれたラバの隊列で主要なスペイン領の港に運んだ。港はパナマ地峡やヌエバ・エスパーニャのベラクルスにあった。「フロータ」がシルバー・トレインと落ち合うと、積んできた商品を降ろして待っていた商人に渡し、それから貴重な積み荷である金や銀(塊や貨幣の形態)で船倉に積んだ。このことで帰りのスペイン船隊は魅力ある標的になったが、海賊は守りの堅い主要船舶を捕まえようとするよりも船隊の跡をつけてはぐれた船を攻撃した。カリブ海を通る宝物船隊の通常のルートは、小アンティル諸島から中央アメリカやヌエバ・エスパーニャ海岸のスパニッシュ・メインにある港を通り、北に向かってユカタン海峡を抜け西風を掴んでヨーロッパに向かうものだった。

プロテスタントの国であるオランダやイングランドは、1560年までにカトリック国スペイン(16世紀キリスト教国の中で最強国)に反抗しており、一方フランス政府はスペインが大きな利益の出ることを証明して見せた新世界における植民地を拡張しようとしていた。1564年、現在のフロリダ州ジャクソンビルの近くにカロリーヌ砦を設立して、カリブ海で初のスペイン以外の開拓地を設立したのがフランスだった[7]


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