カリフォルニア・トレイル
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カリフォルニア・トレイルの主要路(濃赤線)、アップルゲイト・ラッセン路とベックワース路(淡赤線)も示す

カリフォルニア・トレイル(: California Trail)は、北アメリカ大陸の西半分を越える全長約2,000マイル (3,200 km) の移民が通った山越えの主要路であり、ミシシッピ川の町から現在のカリフォルニア州に至るものである。主に1841年から1869年まで使われた。東からはオレゴン・トレイルモルモン・トレイルと同じ経路や様々な川の流域を辿り、現在のアイダホ州ワイオミング州あるいはユタ州からは南西に分かれて、ハンボルト川流域に至る道を辿った。現在のネバダ州グレートベースンを横切る経路の大半は、あらゆる旅人にとって必要だった水、草および焚きつけを得るためにハンボルト川流域にそって進んだ。ネバダ州西部やカリフォルニア州東部に出れば、開拓者達は岩の多いシエラネバダ山脈を越える幾つかの道を通り、カリフォルニア州西部の金鉱地、開拓地および都市に入っていった。

この道を1849年より前に利用したのは約2,700人だった。これらの開拓者は1846年1847年ジョン・C・フレモントのカリフォルニア大隊の一員として、カリフォルニアをアメリカ合衆国の領土に変える時の推進者になった。1845年までにこの地域にはカリフォルニオと呼ばれる非先住民がおり、約1,500人の成人男子と約6,500人の女性子供で構成され、ロサンジェルス周辺の現在のカリフォルニア州南部に大半が住んでいた[1]。移民の大半(ほとんど全員が成人男性)はカリフォルニアの北半分に住んだ。1845年にメキシコからカリフォルニアの支配権をもぎ取っていたカリフォルニオとの間に、1847年1月14日カフエンガ条約が調印された時、カリフォルニアにおける小さな武装抵抗が終わった[2]米墨戦争を終わらせた1848年2月のグアダルーペ・イダルゴ条約により、カリフォルニアはメキシコから有償でアメリカ合衆国領に変えられた。1848年1月に金が発見された後は、カリフォルニア・ゴールドラッシュに関する噂が急速に広まった。1848年後半からは、25万人を越える事業家、農夫、開拓者および鉱山労働者達がカリフォルニア・トレイルを越えてカリフォルニアに到来した。その通行者が大変多かったので、2年も経たないうちにパナマ地峡を経てあるいはホーン岬を回って海路訪れる者達を合わせると、1850年までにカリフォルニアが合衆国31番目の州に昇格できるだけの住人が集まった。

カリフォルニア・トレイルの経路は、1829年頃から1840年にかけて、キット・カーソンやジョセフ・レッドフォード・ウォーカー、ジェデディア・スミスなどのアメリカ人毛皮交易業者、さらにはピーター・スキーン・オグデンに率いられたハドソン湾会社の罠猟師達によって部分的に発見されていた。1841年から1844年の間には、ハンボルト川(当時はメアリーズ川と呼ばれた)沿いやシエラネバダ越えの使用できるものの荒々しい馬車道が、カリフォルニアに向かう開拓者達によって切り開かれた。1869年に最初の大陸横断鉄道が開通するまで、特に夏季にこの道は大いに利用された。当初の道には多くの枝道や短絡路が存在し、これらを合わせると約5,500マイル (8,800 km) にも及んだ。これらの道の中で約1,000マイル (1,600 km) は轍が残っており、カンザス州ネブラスカ州、ワイオミング州、アイダホ州、ユタ州、ネバダ州及びカリフォルニア州に跨り、大量に西部への移民が進んだ歴史的証拠になっている。現在この道の一部は「カリフォルニア国定歴史の道」として、土地管理局やアメリカ合衆国国立公園局によって保存されており、これらの局および多くの州の「オレゴン・カリフォルニア・トレイル協会」組織によって道標が立てられている[3][4]
カリフォルニア・トレイルの経路
東部

オレゴン・トレイルやカリフォルニア・トレイル、モルモン・トレイルさらに後のボーズマン・トレイルは全て、北アメリカ大陸西半分を越える同じ道路網の大半に沿って西へ向かうものだった。カリフォルニアに達するトレイルの正確な経路は旅の出発点、カリフォルニアの最終目的地、開拓者達の思いつき、道沿いにある水や草、道を攻撃してくるインディアンの状態、道沿いに得られる情報、さらには1年のうちの季節によって変わっていた。4人ないし6人の旅の基本は、6か月間の十分な食糧と細かな物資、それらを運び雨よけにもなる荷車、それを曳くための4頭ないし6頭の動物、また宿営地ごとに自分達や動物に水や食糧を供給し、料理をするための水、草、焚きつけ(バッファローの糞あるいはヤナギやヤマヨモギの枝であることが多い)といったものだった。大半はほぼ全行程を徒歩で行っており、妊婦や幼い子供でもなければ荷車に長く乗ることはまれだった。男達の中には馬やロバを持っていて行程の大半をそれに乗って行く者もいた。少数は歩くか駄獣を使ってほぼ同じ道を進んだ。道はほぼ常に大陸を横切るように流れる川の流域に沿ったものだったが、1859年頃にユタとネバダを横切る中央山岳路が開発されて変わった。1つの季節に4か月ないし6か月の旅を終えられるために、出発は4月初旬から5月であることが多く、すなわち草が伸び、荷車を通せるように道が乾くようになってからできる限り早く出て行った。雪がまた降り始める前の9月初旬から10月までに旅を終えることが期待された。

ミズーリ川に到着してそれを越えるまでにミズーリ州アイオワ州の中を幾つかの枝道が通っていた。ミズーリ川西岸に渡るためには渡し舟や蒸気船が用いられた。アメリカ合衆国やヨーロッパの他の地点を出発した多くの旅人は、オハイオ川を平底船や蒸気船で下り、ミシシッピ川やミズーリ川を蒸気船で遡って、西部への出発点に到着した。多くの者はセントルイスで物資、荷車、動物達を購入してからミズーリ川への船旅に出た。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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