カリフォルニア・ゴールドラッシュ
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川の砂鉱床で採掘に従事する金採掘者(1850年)ゴールドラッシュ初期のカリフォルニアに向かう船の広告

カリフォルニア・ゴールドラッシュ(: California Gold Rush、1848年-1855年)は、カリフォルニア州(当時はまだ州になっていない)コロマのサッターズミルでジェームズ・ウィルソン・マーシャルを発見した1848年1月24日に始まった[1]。金発見の報せはたちまち広がり、アメリカの全国や海外からおよそ30万人もの男、女、子供がカリフォルニアに集まることとなった[2]。この30万人の中で約15万人は海路から、残りの15万人は陸路を伝って到着した。

これら初期の採掘者らは1849年にカリフォルニアに向かった者が多かったことから「フォーティナイナーズ」と呼ばれた。彼らは船、あるいは幌馬車北アメリカ大陸を横断したが、旅の途中でしばしばかなりの困難さに直面した。これら新たに到着した者達の大半がアメリカ人だったが、このゴールドラッシュはラテンアメリカヨーロッパオーストラリアおよびアジアなどの何万人もの人々をも惹きつけた。当初、採掘者達が選鉱なべのような単純な技術で小川や川床の砂金を探した。後に金探鉱のためのより洗練された技術が開発され、その技術が後に世界中で採用されていった。その最高潮に達した時、技術の進歩はそれなりの資金が必要となるまでになり、個人の採掘者よりも会社組織の探鉱の比率が増していった。今日の米ドルで数百億ドルにもなる金が発見され、極少数の者には莫大な富をもたらしたが、多くの者は来た時と大してかわらない資産のまま故郷に帰った。

ゴールドラッシュの影響は相当のものだった。サンフランシスコは1846年に人口200人ほどの小さな開拓地だったものが、1852年には約36,000人の新興都市に成長し、カリフォルニア中に道路、教会、学校および新たな町が建設された。1849年には州憲法が起草され、知事や州議会議員が選挙で選ばれ、1850年協定の一部としてこの年にカリフォルニアはアメリカ合衆国31番目のとして迎え入れられることになった。

新しい交通体系が発展し、蒸気船が定期運航され、鉄道が敷かれ、カリフォルニアの次の成長分野となった農業が州内で広く始められた。しかし、ゴールドラッシュは否定的な効果もあった。インディアン達が攻撃されてその伝統的な土地から追い出され、また金の採掘で川や湖など環境が汚された。

正貨の準備が容易になってニューヨークの銀行も数を増やした。1849年のとき24行だったのが、1853年には57行に増えた。そこで1853年には、合衆国初の手形交換所であるニューヨーク資金決済機構が設立された。初日には2260万ドルを決済した。今日では日に平均200億ドル超を決済しているという。
歴史シエラネバダ山脈とカリフォルニア州北部の金鉱原サッターズミルの前に立つマーシャル

ゴールドラッシュは、エルドラド郡コロマに近いサッターズミルで始まった[3]1848年1月24日サクラメントの開拓者ジョン・サッターに雇われた現場監督だったジェームズ・マーシャルは、アメリカン川沿いに建設していた製材所の放水路で輝く金属の欠片を見つけた[4]。マーシャルは静かに見つけたものをサッターのところに持って行き、二人は密かに発見物を分析。その結果、マーシャルの持ってきた欠片は金であることが分かった。サッターは、金の大掛かりな探索が始まった場合に、農業帝国にするために描いていた自分の計画にとって都合の悪い何かが起こることを恐れたため狼狽し、このことを内密にして置きたいと思った[5]。しかし、噂は直ぐに広がり始め、1848年3月にサンフランシスコの新聞社主で商人のサミュエル・ブラナンによって真実であると確認された。カリフォルニア・ゴールドラッシュに関してブラナンによる最も有名な行動と発言は、金探鉱用物資を売る店を大急ぎで作り上げた後で[6]、金を入れた小瓶を掲げながらサンフランシスコの通りという通りを闊歩して、「金だ!金だ!アメリカン川から金だ!」と叫んだというものだった[7]。この金鉱発見の報せに、カリフォルニアで農業を始めて運試しをしていた多くの家族が金を探す事を決断し、カリフォルニアでは初めての坑夫になった。

当時カリフォルニアはアメリカ合衆国の州というよりは、むしろメキシコアルタ・カリフォルニアの一部だった。しかし、金発見の直後の1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約により米墨戦争が終結した時、この地域とアルタ・カリフォルニアの残りはアメリカ合衆国に割譲された。

1848年8月19日、「ニューヨーク・ヘラルド」紙が、カリフォルニアにゴールドラッシュが起こったことをアメリカ東海岸に報道した最初の新聞になった。12月5日にはジェームズ・ポーク大統領が議会演説で金の発見を肯定した[8]。間もなく「フォーティナイナーズ」と呼ばれることになる世界中からの移民の波がカリフォルニアの金鉱原すなわち「マザー・ロード」に侵入した。サッターが恐れていたように事業は破滅し、雇っていた労働者達は金探鉱のために去って行き、不法侵入者がサッターの土地に侵入して穀物や牛を盗んだ[9]

サンフランシスコはゴールドラッシュが始まる前までちっぽけな開拓地だった。住民が金発見の報せを受けたとき、船主や事業主までゴールドラッシュに加わって、当初はゴーストタウンになってしまった[10]が、その後に商人や新しい人々が到着して俄かに興隆した。サンフランシスコの人口はおそらく1848年の1,000人[11]から、1850年には常住人口で25,000人まで膨れ上がった[12]。多くの新興都市がそうであったように、突然の人口流入によってサンフランシスコや金鉱原に近い町のインフラは歪みを生じることとなった。人々はテント、木製の掘っ建て小屋、あるいは放棄された船舶から外した船室に住んだ[13]。金が発見された所はどこでも、何百人もの坑夫が共同してキャンプを作り上げ、その権利を主張した。それぞれのキャンプにはウィスキー・ジャー(ウィスキー瓶)、ラフ・アンド・レディ(即席)、ジャッカス・ガルチ(田舎者の谷)、ハングタウン(溜まり場の町)およびヘルズ・ハーフエーカー(地獄の半エーカー)といった名前を付けて、それぞれ酒場や賭博場ができた[14]1840年のカリフォルニアに至る経路

「初めての世界的ゴールドラッシュ」と言われることになったこの出来事で[15]、カリフォルニアに到達するのは容易なことではなかった。フォーティナイナーズは苦難に見舞われ、途中で死ぬ者も多かった。当初アルゴー船の乗組員とも呼ばれた者達の大半は海路を旅して来た。アメリカ合衆国の東海岸から南アメリカの先端を廻る航海は5ないし6ヶ月を要し[16]、総延長は18,000海里 (33,000 km) もあった。別の海を進む経路としてパナマ地峡大西洋側に到り、ジャングルをカヌーやロバを使って1週間掛かって通り抜け、それから太平洋側に出てサンフランシスコに行く船を待った[17]ベラクルスからテワンテペク地峡を通ってメキシコを横切っていく経路もあった。多くの金探求者はアメリカ合衆国の北アメリカ大陸を横切る山岳路、特にカリフォルニア・トレイルを選択した[18]


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