カラマズー
City of Kalamazoo
カラマズーのダウンタウン
位置
カラマズー郡内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度17分24秒 西経85度35分24秒 / 北緯42.29000度 西経85.59000度 / 42.29000; -85.59000
カラマズー(Kalamazoo)は、アメリカ合衆国ミシガン州の都市。カラマズー郡の郡庁所在地である。人口は7万3598人(2020年)。カラマズー郡1郡のみで成る都市圏を形成している。
カラマズーはロウアー半島南西部における産業・文化の中心となっている都市である。加えて学園都市としての要素も持っており、一流のリベラルアーツ・カレッジであるカラマズー大学や地域密着型の州立大学である西ミシガン大学がキャンパスを置いている。また、ギブソン発祥の地としても知られている。
また、カラマズーは、日本の作家永井荷風が1904年から1905年にかけて居を構えていた地でもある。 カラマズーの市名は市内を流れるカラマズー川
市名とその由来
ヘンリー・スクールクラフトによる解釈を基にした説。ネイティブ・アメリカンのポタワトミ族の言語で「カワウソの尾」を意味するnegikanamazoから来ているとしている。
ポタワトミ族のフリート・フッドの伝説に基づくとする説。花嫁を勝ち取るために、フリートは居住地から河岸のある地点まで走って行き、ポットに入った水が沸騰する前に戻ってこなければならなかった。これは白人の入植者がこの地に定住するようになる数十年前、1810年頃のことであったと考えられている。1823年に描かれた地図には、ポタワトミ族の言語で「沸騰する水が入ったポット」を意味するkikalamezoという語が記されている。この語がフリート・フッドの伝説に由来していると考えられている。
この「沸騰する水が入ったポット」という訳語は、近隣の川が蛇行しながら流れており、その形状がポットに似ているということを表しているとする解釈もある。
またkikalamezoという語の訳語としては「蜃気楼」や「(光を)反射する水」もあてられている。これらの訳語例から、当時は清流であった川を表しているとする解釈もある。
土着のオジブワ族やオタワ族の言語で「煙で燻された」という意味のGiikanaamozoogから転訛したという説。カラマズー川の暗い流れを表しているとしている。
もともとこの都市は、川を歩いて渡ることが容易な浅瀬の近くに造られたことから、カラマズーという語が川の浅瀬を意味しているとする説もある。
初期の公式紙には、カラマズーという名は「インディアンに狩られた動物がもがき死ぬ場所」という意味のネイティブ・アメリカンの言語に由来している、と記されている。
カラマズー市内の商店で売られている、Yes, there really is a Kalamazoo!とプリントされたTシャツ
その一風変わった名から、「ティンブクトゥからカラマズーまで」とよく称される。カラマズー市内では、Yes, there really is a Kalamazoo!とプリントされたTシャツが売られている。
また、オペラやジャズ、さらにはポップ・カルチャーの中にも「カラマズー」の名はしばしば出てくる。フィリップ・グラスが1976年に発表したオペラ、「渚のアインシュタイン」にはカラマズーの名が出てくる。グレン・ミラーはI've Got a Gal in Kalamazooという楽曲を出した[2]。ベン・フォールズ・ファイヴ[3]、プライマス[4]、ドクター・フリーマン・アンド・ザ・ディフェンダーズ・オブ・ザ・ユニバース、ルナ[5]、マイク・クレーバー[6]はそれぞれ"Kalamazoo"というタイトルの楽曲を発表した。ジョニー・キャッシュの"I've Been Everywhereにもカラマズーが登場する[7]。また、ラスカルズの"All Over The World"やクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのDown on the Cornerにもカラマズーの名が出てくる[8]。2006年に発表されたインディペンデント映画Kalamazoo?は、タイトルにカラマズーの名を冠しているのみならず、ストーリーもカラマズーを舞台とし[9]、撮影も全編にわたってカラマズーで行われた[10]。 紀元前から、この一帯にはネイティブ・アメリカンによるホープウェル文化
歴史
記録に残っている中では、この地に足を踏み入れた最初のヨーロッパ人はロベール=カブリエ・ド・ラ・サールであるとされている。ラ・サールは1680年3月の終わり頃にこの地を訪れた。初期のヨーロッパ人定住者は主に18世紀終盤から19世紀初頭にかけてこの地に入植した毛皮取引商であった。毛皮取引商たちの越冬や、1820年頃の取引所の存在についての記録も残っている[12]。下院・上院両方の議員を務めたチャールズ・E・スチュアートは1835年にカラマズーに移住し、カラマズーで生涯を終えた。
米英戦争中には、イギリス軍によってこの地に鍛冶場と牢獄が置かれた[12]。1821年にアメリカ合衆国連邦政府とネイティブ・アメリカンとの間に締結されたシカゴ条約によって、グランド川の南側はすべてアメリカ合衆国の領土となった。カラマズー川のほとりのこの地には、シカゴ条約によってネイティブ・アメリカンの村となる3マイル四方の土地が確保された。その6年後、1827年に締結されたセントジェセフ条約により、この村もミシガン準州に編入された。
1829年、コネチカット州出身のタイタス・ブロンソンは、白人入植者としては初めて現在のカラマズー市域内に家を建てた。翌々年の1831年には、ブロンソンは区画を整理し、造り上げた村に自らの名を冠した。ブロンソンはよく「エキセントリックで議論好きな人物」と言われ、後に町から出て行った。