カラブリア沖海戦
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カラブリア沖海戦[1](カラブリアおきかいせん)、プンタ・ステロ沖海戦[2]は、第二次世界大戦中の1940年7月9日イタリア半島のつま先であるカラブリア半島沖の東48kmイギリス海軍及びオーストラリア海軍の艦艇からなる連合国艦隊とイタリア海軍の艦隊の間で行われた海戦イギリス側はカラブリア海戦(Battle of Calabria)、イタリア側はプンタ・スティーロ海戦(Battaglia di Punta Stilo)と呼称した。日本ではカラブリア岬沖海戦[3]、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}プンタ・スティーロ沖海戦(プンタ・スティロとも)[要出典]と表記する場合もある。

連合国側の艦隊はマルタからアレクサンドリアへ向かう船団の護衛(MA5作戦)のために、イタリア側の艦隊は北アフリカへ向かう船団護衛のため出撃したものであった。

カラブリア沖海戦は主力艦に撃沈された艦艇はないものの、両軍は多数の艦艇を投入していたため、地中海における主要な海戦として数えられる。両軍は勝利を宣言したが、実質的に引き分けであった。しかし、この海戦以降、イタリア海軍の主力部隊は基地から出撃することを躊躇し、逆にイギリス海軍は積極的な作戦行動を行うようになった。両艦隊の動向[4]
背景

イタリアは多くのヨーロッパ諸国と同様に1941年まで第二次世界大戦は起こらないだろうと予想していた。しかし、ドイツ軍のフランス侵攻でフランス軍が劣勢になると、イタリアはドイツの成功に乗じ、1940年6月10日にイギリス・フランスに対して宣戦布告、イタリア本土から南フランス、およびリビアからエジプトへ侵攻を開始した。しかしリビアに配備されていたイタリア陸軍は戦闘準備ができておらず、在リビアの陸軍・空軍への補給作戦を実施する必要を迫られた。

7月6日ナポリカターニアから兵員や戦車などを載せた5隻の船団がトリポリ行きを装いつつベンガジへ向けて出発した。護衛には軽巡洋艦バルトロメオ・コレオーニ」、「ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレ」、駆逐艦4隻、水雷艇6隻があたる。

一方イギリス軍側では6月のMA3作戦中に発生したエスペロ船団の戦いの結果、マルタから出発するはずであった船団が閉じ込められていた。このためアンドルー・カニンガム中将率いるイギリス海軍地中海艦隊主力をアレキサンドリアから出撃させ、その護衛のもと非戦闘員などを載せた二つの船団(MF1船団とMS1船団)をマルタからアレキサンドリアへ突破させるという計画が練られた。作戦名はMA5作戦。

イタリア軍情報部はMA5作戦をつかんでいた。さらに、マルタに到着した駆逐艦2隻を巡洋艦と誤認したこともあり、先に上げた直接の護衛部隊以外に艦隊主力を二つに分けて出撃させた。一つ目は重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦16隻で、第2艦隊司令長官リッカルド・パラディーニ中将が率いていた。二つ目は戦艦「コンテ・ディ・カブール」、「ジュリオ・チェザーレ」、軽巡洋艦6隻、駆逐艦20隻で、第1艦隊司令長官イニーゴ・カンピオーニ中将が率いていた。タラント湾

イギリス海軍地中海艦隊は7月7日から8日にかけての夜にアレキサンドリアから出撃した。出撃したのは戦艦「ウォースパイト」、「ロイヤル・サブリン」、「マレーヤ」、空母「イーグル」、軽巡洋艦5隻、駆逐艦16隻であった。


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