カラチ
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この項目では、パキスタンの都市(Karachi)について説明しています。その他の用法については「カラチ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

カラチ
?????


位置

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯24度51分36秒 東経67度00分36秒 / 北緯24.86000度 東経67.01000度 / 24.86000; 67.01000
行政
パキスタン
  シンド州
 市カラチ
City NazimMustafa Kamal
(Muttahida Qaumi Movement)
地理
面積 
  市域3,527 km2 (1,356 mi2)
標高8 m (26 ft)
人口
人口(2017年現在)
  市域14,910,352人
    人口密度  3,900人/km2(10,000人/mi2)
  都市圏16,051,521人
その他
等時帯パキスタン標準時 (UTC+5)
市外局番021
公式ウェブサイト : ⇒www.kmc.gos.pk

カラチ(ウルドゥー語: ?????‎ カラーチー、シンド語: ?????、英語: Karachi)は、パキスタン南部、アラビア海沿岸にあるパキスタン最大の都市インダス川河口の西に位置する。シンド州の州都であり、世界有数のメガシティである。

2016年の近郊を含む都市的地域の人口は2,282万人であり、世界第7位である[1]。また、パキスタンにおける商業・金融の中心地でもある。位置は、北緯24度48分、東経66度59分。パキスタン建国から1960年8月1日に首都機能がイスラマバードに移転するまでは、同国の首都であった。
歴史
概要

バローチスタン州やマクラーン(英語版)に住んでいたバローチ人が漁村を作ったのがカラチの始まりである。バローチ人の多くが今もなお、カラチに居住しており、バローチー語ではこの都市のことを Kolachi と呼ぶ[2]。しかしながら、カラチが現在の姿に発展するようになったのは19世紀から始まるイギリス植民地時代に、植民地支配の拠点として都市および港湾を整備したことに起因する。1947年、パキスタンが独立を達成すると、カラチはパキスタンの首都となり、インドからムスリムが多く移住した。独立直後の人口移動により、カラチは、急速に人口が拡大するとともに、パキスタンにおける政治・経済の中心として機能するようになった。カラチはインフラストラクチャーが貧弱だったこともあり、社会経済的に大きな問題に直面したが、現在では、パキスタンにおける産業・ビジネスの中心地として発展を遂げた。
カラチの発展史

現在のカラチを中心とする地域は、古代ギリシアの時代より様々な呼ばれ方がされてきた。アレクサンドロス3世は、インド遠征からバビロニアへ帰還する際に、海路を選択しているがその頃の呼び名は、クロカラであった。8世紀には、アラブ人の間では、デバル(英語版)と呼ばれた港町であり、712年に始まるムハンマド・イブン・カースィムによるインド遠征の拠点となった。

今日のカラチは、Mai Kolachi(英語版)と呼ばれるシンド人の漁師が住居を構えたことから始まっており、その村は後にシンド語でKolachi-jo-Gothと呼ばれる村に成長していった。1700年代の後半になると村は、マスカットペルシア湾と結びついていたアラビア海の地域との交易の中心地となり、マスカットからは大砲が輸入され、城塞も建築された。城塞は2つの門を持っていた。1つは、Kharra Darwaazaと呼ばれ海に面し、もう一つは、Mitta Darwaazaと呼ばれLyari River(英語版)に面していた。

1795年、カラチは、バローチ人のタルプール(英語版)の支配を受けるようになった。1799年にはイギリス人の手によって小さいながらも工場の建設が行われた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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