カラシニコフ・コンツェルン
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カラシニコフ・コンツェルン
本社
種類株式会社
設立1807年
創業者アンドレイ・フョードラヴィチ・デリャービン
本社Proezd Deryabina 
売上高18,342,315,000 ロシア・ルーブル (2016年) 
営業利益4,121,654,000 ロシア・ルーブル (2016年) 
利益?7,370,000 ロシア・ルーブル (2016年) 
総資産22,500,181,000 ロシア・ルーブル (2016年) 
従業員数5,930 (2016年) 
親会社ロステック 
ウェブサイトhttps://kalashnikovgroup.ru/

カラシニコフ企業グループ(英:Kalashnikov Concern)は軍事用と非軍事用の製品製造を行う多面的企業で、射撃部門のOPKロシアでは自動小銃狙撃銃、精密兵器を製造している。非軍事部門の製品として猟銃、単発式小銃銃架、手動器具が含まれる。
概要

製品は3つの武器製造ブランドの下で製造されており、「カラシニコフ」では軍事・非軍事武器、「バイカル」では狩猟用と非軍事武器、「イズマッシュ」ではスポーツ用武器を製造している。2015年からは遠隔操作戦闘モジュール、無人航空機、特殊小型舟艇の開発、さらに特殊衣料、特殊装備の開発を行っている。企業グループの製品は27カ国以上に輸出されている。本部はイジェフスクにあり(ウドゥムルツカヤ共和国)、公式代表部はモスクワに置かれている。

当コンツェルンの株51%を国営企業ロステック社が、残り49%を個人投資家(アレクセイ・クリヴォルチコ、アンドレイ・ボカレフ、イスカンデル・マフムードフ)が保有する。
歴史アンドレイ・デリャービン イジェフスク工場鉱山技師主任兼イジェフスク兵器工場主任
設立

1754年、女帝エリザベータ・ペトロヴナの命令により、金属の生産を高める要求とともにゴロブラガダツキー工場が有利な条件で寵臣P.I.シュヴァロフへ譲渡された。1757年9月15日、シュヴァロフは鉱山参議会より3つの工場建設の許可を得た。2か所はカザン郡のヴォトカとチャストイ、1カ所はウフィムスカヤ郡のクトマスであった。これらの工場のうち建設されたのはヴォトカの一か所で、残り2つのかわりにシュヴァロフはヴォトカから南西約70ヴェルストの場所にイジェフスキー製鉄工場を建設した。カマ地域のゴロブラガダスキーの鋳物加工用にイジェとヴォトカに新たな2つの工場建設の許可がおりたのは、ウラルで当時すでに燃料と水力資源の欠乏の兆候がみられたためである。鋳物の輸送はチュソヴァ川とカマ川が予定された。カマ工場の建設はA.S.モスクヴィンが直接指揮をとり、ヴォトカ工場が1759年に、イジェ工場は1760年に開業した。両工場とダム(ヴォトカ池とイジェ池)の建設には近在の入植地の徴用農民とゴロブラガダツキー工場の職人が当たった。

18世紀末のヨーロッパの軍事政治的状況が先鋭化するなか、国内東部での新たな兵器工場の建設の必要性が生まれた。A.F.デリャービンの提案でイジェの製鉄工場を基に新たな工場の建設が決まった。1808年10月28日、イジェフスキー製鉄工場は軍事省の下に移され、デリャービンはこの工場の建設と運営を任された。イジェフスキーの兵器工場建設の命はアレクサンドル1世によって1807年6月10日になされた。工場の兵器事務所の開所は1807年6月10日であり、この日がイジェフスキー兵器工場の誕生の日とされている。
初期

兵器工場は成功裏に射撃用武器の製造を始めた。デリャービンが海外から招いた専門技術者(約200名のベルギー人、フランス人、ドイツ人)は自ら働いただけでなく、またその技術をロシア人の職人らに伝授した。兵器工場が製鉄工場と同じ敷地にあったため原材料の確保に困難はなかった。

1807年の秋に工場で最初の武器が製造された。これは銃身から弾を込めることができる歩兵用7行スムースボアフリント(口径17.7 mm)であった。1807年の一年間で7丁の小銃、5丁のピストル6つの短剣が製造された。1808年にはそれぞれ25丁、14丁、14個であった。デリャービンは武器の細部の統一に細心の注意を払った。1812年の祖国戦争の開戦までにE.E.グレンの指揮の下でロシア軍のために射撃用銃と刀剣の量産体制が敷かれた。開戦からの4年間に工場は2000丁の小銃を製造したが、戦争中に工場は武器の製造量を10倍に増やし、M.I.クトゥーゾフ将軍率いる軍に6000丁以上の火縄銃を供給することが可能となった。

最も大量に生産されたのは歩兵の軍備統一のための1808年型のロシアの歩兵用7行非施条銃(口径17.7 mm)であった。また狙撃兵用、軽騎兵用(ポーランド風)、騎馬兵用のライフル銃と、胸甲騎兵用、驃騎兵用のカービン銃、竜騎兵用ライフル銃、施条銃、狙撃銃、榴散弾を装弾可能な1809年型の火縄ライフル銃(1810年は2500丁、1811年は約1万丁、1812年に1万3500丁)が製造された。刀剣も製造され、歩兵用刀剣と(1812年には2200口)、近衛兵工兵用の刀剣、胸甲騎兵用の長剣、竜騎兵用のサーベル、短い斧槍砲兵と騎兵用の槍であった。

武器製造の増加により、それまで転用し使われていた小規模な建物から大容量の倉庫への移動が必要となった。1823年から25年にかけて建築家ドゥディナの設計により武器庫が建設された。この建物は1986年以降ウドゥムルティー民俗博物館となっている。武器工場に関連するイジェフスクのその他の建物に1823年建造の兵器工の庇護聖人アレクサンドル・ネフスキー寺院もある。

1812年から14年にかけて工場は2万4千丁の武器(国内製造の11%)を製造し、ナポレオン戦争での勝利に貢献した。1816年、工場の2847名の労働者のうち18名は外国人の熟練工(現場主任)で、412名は製鉄に2435名は武器製造に携わっていた。

1820年までに武器の製造は年間2万丁を達成していた。1845年にはライフル銃ピストルの製造を開始し、1857年からは施条銃の生産を開始した。1855年には塊鉄を排除するコンテ式の製鉄法が導入された。

工場の圧延機は1840年代には60機の木製水車を用いていたが、1850年には57機となり、1858年には銃身穿孔用工場で初の鉄輪水車が設置された。1841年には蒸気機関設置の試みがなされたが失敗に終わった。(初の蒸気機関の設置は1875年であった。)ゴロブラガダツキー工場から鋳鉄12万から13万プード、ペルミ工場からは1000プードの銅を受け取った。燃料は材が使われ、毎年最大4万5020プードの木炭が使用された。

イジェフスキー兵器工場の民間のパトロンは、その命により工場が創設されたアレクサンドル1世であった。アレクサンドル1世はこの企業に多大な関心を払った。工場をカムスコ‐イジェフスキー・アレクサンドロフスキーと名付ける公式文書もある。1825年の10月4日と5日、皇帝はイジェフスキー工場を個人的に訪れている。

歩兵用の他に胸甲騎兵、驃騎兵、騎乗狙撃兵、竜騎兵用の小銃の製造も開始した。1830年と1840年の間に軍にI.V. ガルティング型のカービン銃を供給した。またバルチック艦隊のためにファリス型の後装式要塞銃を製造した。歩兵用の旧式新式のピストル、新式の渡河用、刀剣、士官用、兵士用の胸甲も製造した。

1835年に刀剣の製造が正式に中止となった。これは火器の製造に集中することが決定されたためで、刀剣類の製造はズラトウスト社に移譲された。

次第により完成型の兵器の製造が始まった。1843年には歩兵大隊の武器として最初の型のライフル銃―1843年型のリュッチフスキー・カービン銃が決定された。1844年には使用されている火縄銃をより丈夫で速射力のある雷管銃へ改造することが決定された。1854年からは新たなカプセルロック式の衝撃兵器が製造開始され、1854年にはすでに3万9000丁以上が製造された。

クリミア戦争の間に、イジェフスキー工場では13万500丁の兵器が作られ、そのほぼ三分の一はライフル銃であった。皇帝ファミリーに贈呈される記念兵器や、軍功に対し士官たちに与えられる賞品兵器も製造された。また狩猟用の武器も製造された。しかし基本的な方向性は常に軍事用兵器であり続けた。

始めの半世紀の間にイジェフスキー工場では67万2308丁の火縄銃とピストル、22万6602丁の衝撃兵器とピストル、5万8262丁のライフル銃、数多くの刀剣が製造された。工場創立の日から1866年までの間にやく100万丁の兵器(全ての兵器工場の製品の33%)が製造された。

後に、イジェフスキー工場では1856年型の雷管式施条銃(ライフル銃)が作られ、これがロシア軍の軍備として使われた最初の大量生産のライフル銃となった。
賃貸借

1867年にイジェフスキー兵器工場は民間化され、その時から会社はレンタル管理に移った。1867年から1884年まで会社は3人の賃借人、D.S. フローロフ、P.A.ビルデルリング、G.I.スタンデルセルドによって経営され、また著名な発明家リュードヴィク・ノーベルの弟もビルデルリングと共に会社を経営し、会社の発展に貢献した。

賃借人らは工場の本格的な近代化に成功した。1873年までに以前よりも大幅に製造量を増やすための工場の改築を完了した。1874年からはイジェフスキー工場に兵器の他に製鋼所の名称もついた。賃貸借の時期には工作機械置場と工場のエネルギー体制も大きく発展した。初めて電報電信局が開かれ、電話線が繋がり、工場内に鉄道輸送路が出来た。まさにこの頃に工場では(軍用の、特に露土戦争の軍の装備として注文されたベルダン銃の製造開始と共に)兵器の全ての部品の機械製造に限り、労働の分業化がついに実現された。このおかげで新しい武器の製造はライフル銃が年間3万?5万から15万丁に伸び、同時に鉄鋼の生産も増大した。

1876年には最初の蒸気ハンマーが始動し、1877年2月1日には鋼鉄の一日の生産性を250プードにまで上げた平炉が始動した。1882年には2機の圧延機が設置された。

製造される兵器の専門語彙もまた発達した。クリミア戦争後にロシア軍は球詰まりせず、薬室から装填できる銃を必要とした。1866年、軍隊と兵器庫に登録されていた70万もの砲口ライフル銃の改造が必要となった。


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