カラカッラ
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「カラカラ」のその他の用法については「カラカラ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

カラカラ
Caracalla
ローマ皇帝
カラカラ胸像
(ナポリ美術館所蔵)
在位209年 - 217年4月8日
戴冠式209年2月4日

全名

ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス(195年以前)Lucius Septimius Bassianus

マルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル(198年)Marcus Aurelius Antoninus Caesar

カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス(211年)Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus

カエサル・マルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス・ピウス・アウグストゥス(死没時)Caesar Marcus Aurelius Severus Antoninus Pius Augustus

出生188年4月4日
ルグドゥヌム
死去 (0217-04-08) 217年4月8日(29歳没)
ハッラーン
簒奪マクリヌス
配偶者フルウィア・プラウティッラ(188年/189年 - 211年/212年、ガイウス・フルウィウス・プラウティアヌスの娘)
子女

女子(204年 - 211年/212年、母はフルウィア・プラウティッラ)

ヘリオガバルス(従姉の子〈従甥〉、落胤を自称)

王朝セウェルス朝
父親セプティミウス・セウェルス
母親ユリア・ドムナ
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ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス(ラテン語: Lucius Septimius Bassianus[1]188年4月4日 - 217年4月8日[2])は、ローマ帝国皇帝で、セウェルス朝の君主としては第2代当主となる。本名よりもカラカラ(Caracalla)という渾名で呼ばれる場合が多く、歴史学者達もこのように呼称している[3]

セウェルス朝の初代君主セプティミウス・セウェルスの長男であり、ローマ史上に残る暴君の一人として記憶される[4]。一方で全属州民にローマ帝国の国民としての権利と義務(市民権)を与えるアントニヌス勅令を決定し、結果的にローマ領内における民族・人種による出自差別を撤廃したことで知られる。他に銀貨の改鋳(銀の含有量を減らした)、大浴場(カラカラ浴場)の建設などを肯定的に評価する歴史家も存在する。[要出典]

ただし勅令の目的は歴史家カッシウス・ディオによれば税収拡大が目的ではないかと考えられており、また利点以外に様々な影響をもたらした。[要出典]
生い立ち

ルキウス・セプティミウス・バッシアヌスは、ガリアのルグドゥヌムで元老院議員ルキウス・セプティミウス・セウェルスとその後妻である巫女ユリア・ドムナの長男として生まれた。彼はカルタゴ人アラブ人混血であり(風貌にもそれが強く現れている)[5][6]、母方を通じて属州シリアなどオリエント圏にも出自を持っていた[7][8][9]

父が内戦を制して皇帝に即位すると、政治的駆け引きの一環としてかつて先代王朝を形成していたアウレリウス氏族との関連を持たせるためにマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル(Marcus Aurelius Antoninus Caesar)に改名したが、殆どの人間は彼をカラカラという渾名で呼んだ。カラカラとはガリア地方独特のフード付きチュニックのことで、彼が幼少期から好んで着ていた服装だった。[要出典]209年、父から弟プブリウス・セプティミウス・ゲタと共に共同皇帝としての指名を受けているが、実質的な権限はまだ持たなかった。[要出典]
治世
即位と粛清

セプティミウス・セウェルス帝はカレドニア遠征中に属州ブリタニアのエボラクム(現:ヨーク)で病没した。父の遠征に同行していたカラカラは同じ立場であった弟ゲタと共に実権を掌握して、本格的な統治を開始した。カラカラ帝とゲタ帝は父の始めた戦争を早々と切り上げると、帝都ローマに帰還した。[要出典]

しかしローマに戻った兄弟はそれぞれ独自に統治を行うことを望み、激しく帝国の主導権を争った。あまりの争い振りに内乱すら起こりえる有様であり、二人は帝国を二分して統治する計画を立てた。しかし帝国領の分裂に危機感を抱いた母ユリア・ドムナに反対され、宮殿内での兄弟の諍いは続いていった。211年、遂にカラカラ帝はゲタを殺す決意を固めて近衛兵隊を抱き込み、母が用意した和解の場で弟を殺害するという凶行に及んだ。ゲタ帝は駆けつけた母親の腕の中で息絶えたと伝えられている。カラカラは厚顔無恥にも「弟から身を守った」と嘯いたが、カラカラの側が先に仕掛けたのは誰もが知る事実であった。[要出典]

カラカラ帝の敵意は凄まじく、弟を殺しただけでは飽き足らずダムナティオ・メモリアエ(名誉の抹殺)を元老院に命令している。ゲタ帝とカラカラ帝を共に描いていた通貨や絵画からは全てゲタ帝の姿が削り取られ、胸像は打ち壊された。更にゲタ帝に好意的であった貴族や元老院議員にも粛清の手は及び、亡父の重臣を含めた大勢の人間が処刑された。[要出典]頭部像
初期統治詳細は「アントニニアヌス」および「アントニヌス勅令」を参照

権力を確立したカラカラ帝は資金確保のため、貨幣改鋳を行なって貨幣価値を切り下げた。デナリウス銀貨に含まれていた銀量を56.5%から51.5%にまで減らし、代わりに他の金属を混ぜ込んで価値を引き下げた。同時に新しい通貨としてアントニニアヌス銀貨を採用して2デナリウス相当の価値に設定したが、銀の含有量はデナリウス銀貨の1.5倍程度であった[10]。これらの行動で帝国内では貨幣価値の全体的な低下が起こり、インフレーションが進行する結果となった。


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