カミーユ・ピサロ
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カミーユ・ピサロ
Camille Pissarro
1900年頃(70歳頃)の写真
本名ジャコブ・アブラハム・カミーユ・ピサロ
Jacob Abraham Camille Pissarro
誕生日 (1830-07-10) 1830年7月10日
出生地 デンマーク領・セント・トーマス島
死没年 (1903-11-13) 1903年11月13日(73歳没)
死没地 フランス共和国パリ
墓地 フランスパリ ペール・ラシェーズ墓地[1]
墓地座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度51分33秒 東経2度23分29秒 / 北緯48.8591071度 東経2.3914902度 / 48.8591071; 2.3914902
国籍 デンマーク[2]
運動・動向印象派新印象派
芸術分野絵画(油彩画、版画、ガッシュ画)
教育アカデミー・シュイス
後援者ポール・デュラン=リュエルテオドルス・ファン・ゴッホ
影響を受けた
芸術家コローモネスーラ
影響を与えた
芸術家セザンヌゴーギャン
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カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830年7月10日 - 1903年11月13日)は、19世紀フランス印象派画家
概要

カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島の生まれ。家業の金物屋を手伝っていたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年(22歳頃)から1854年(24歳頃)まで、島を出てベネズエラに旅行に出た(→前半生)。1855年(25歳)、画家を志してパリに出て、画塾でクロード・モネポール・セザンヌといった画家と知り合った。1859年(29歳頃)にサロン・ド・パリに初入選するが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し、生活は苦しかった。当時はコローにならった画風であった。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれたが、年長のピサロもこれに加わるようになった(→画塾とサロン(1860年代))。1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、アルフレッド・シスレーピエール=オーギュスト・ルノワールと一緒に戸外制作を行ううちに、明るい色調の絵画を描くようになった。1870年普仏戦争を避けてロンドンにわたり、画商デュラン=リュエルと知り合った(ルーヴシエンヌ、普仏戦争(1869年-1872年))。1872年からはポントワーズに住み、田園風景を描いた。サロンへの応募はせず、デュラン=リュエルの支援を受けて制作していたが、モネらとともに独自のグループ展を計画し1874年第1回印象派展を開催した。しかし当時主流だったアカデミズム絵画の立場からは受け入れられず、新聞からは酷評された。その後も、印象派展は全8回開かれたが、全てに参加したのはピサロだけである。第4回印象派展の頃から、主に風景画を描くモネ、ルノワールらの仲間と、風俗画を描くエドガー・ドガとの間でサロンへの立場など様々な問題について意見の対立が顕在化し、ピサロもその調停を試みたがグループの分裂を防ぐことはできなかった。第7回印象派展の開かれた1882年頃には、人物画を中心に描くようになった(→ポントワーズ、オニー(1872年-1884年))。1884年からは、エラニーに住んだ。1885年、若手のジョルジュ・スーラと知り合うと、その点描の技法に感化され、1880年代後半は、周囲の不評にもかかわらず、新印象主義を追求した。最後となる第8回印象派展にスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品させたのもピサロであるが、この展覧会は、印象派の終焉を象徴するものとなった。1890年代初めには、点描の限界を感じて新印象派を放棄した。晩年は眼の病気が悪化したこともあり、パリ、ルーアンル・アーヴルディエップという4都市で、ホテルの部屋などから都市の情景を描く「都市シリーズ」を多く制作している(→エラニー(1884年-1903年))。

ピサロが生涯残した油彩画作品は1316点、版画は200点余りに上る。
生涯
前半生『カラカスのピサロとフリッツ・メルビューのアトリエ』1854年

カミーユ・ピサロは1830年カリブ海の、当時デンマーク領だったセント・トーマス島(サン=トマ島)で生まれた。父フレデリック・アブラハム・ピサロは、ボルドー出身のユダヤ教徒で、金物屋を営んでいた。母ラシェル・マンザーナ=ポミエは、セント・トーマス島生まれのフランス系ユダヤ人であった。カミーユ・ピサロは、4人兄弟の三男である。セント・トーマス島の首都シャーロット・アマリーシナゴーグにカミーユ・ピサロの出生登録簿があり、そこには「ジャコブ・ピサロ」という名前で記録されている[3]

1842年、ピサロが12歳の時、パリに渡り寄宿学校に入った。1847年、シャーロット・アマリーに戻り家業の手伝いを始めた。1850年、港でデンマークの画家フリッツ・メルビューと知り合い、ベネズエラ行きを誘われた。そして、1852年から1854年までメルビューとともにベネズエラを旅した。この時のことを、ピサロは後に次のように回想している[4]。セント・トーマス島で高給取りの店員をしていた私は、1852年に、これ以上耐えられなくなり、何も考えずに全てを捨ててカラカスへ逃れた。ブルジョワジーの人生に私をつなぎとめていた綱を断ち切るために。
画塾とサロン(1860年代)

ピサロは画家を志すようになり、1855年9月、セント・トーマス島を去り再びパリに向かった[5]。ちょうどこの時開かれていたパリ万国博覧会では、新古典主義のドミニク・アングルとロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワが特別室を与えられていたが、ピサロは、ジャン=バティスト・カミーユ・コローシャルル=フランソワ・ドービニージャン=フランソワ・ミレーといったバルビゾン派の画家や、展覧会の審査に抗議して個展を開いていたギュスターヴ・クールベに注目した[6]


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