カフー
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この項目では、ブラジルのサッカー選手について説明しています。

プロレスラーのカフーについては「ビクター・セロン」をご覧ください。

アニメ映画『幻魔大戦』の登場人物については「幻魔大戦シリーズの登場人物一覧#幻魔」をご覧ください。

.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はエバンジェリスタ、第二姓(父方の姓)はデ・モラエスです。

カフー

2017年のカフー
名前
本名マルコス・エバンジェリスタ・デ・モラエス
Marcos Evangelista de Moraes
愛称il Pendolino
右サイドの支配者
ラテン文字Cafu
基本情報
国籍 ブラジル
イタリア
生年月日 (1970-06-07) 1970年6月7日(53歳)
出身地サンパウロ
身長176cm
体重75kg
選手情報
ポジションDF(RSB)
利き足右足
ユース
1988-1990 サンパウロ
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1990-1994 サンパウロ 117 (7)
1994-1995 サラゴサ 16 (0)
1995 ジュヴェントゥージ 2 (0)
1995-1997 パルメイラス 35 (0)
1997-2003 ローマ 163 (5)
2003-2008 ミラン 119 (4)
通算452(16)
代表歴
1990-2006[1] ブラジル142 (5)
1. 国内リーグ戦に限る。2009年6月16日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

カフー(Cafu)ことマルコス・エバンジェリスタ・デ・モラエス(Marcos Evangelista de Moraes, 1970年6月7日 - )は、ブラジルサンパウロ州サンパウロ出身の元サッカー選手。元ブラジル代表。現役時代のポジションはディフェンダー

「カフー」はニックネームで、1970年代に活躍したカフリンガ (Cafuringa) という名前のサッカー選手に由来する。長らく活躍したイタリアでは特急列車を意味する「イル・ペンドリーノ(il Pendolino)」という異名で呼ばれたこともあった[2]。史上最高の右サイドバックとも評され、2020年に右サイドバックの歴代1位としてバロンドール・ドリームチームに選出された[3]
経歴
クラブ
初期

7歳の頃にはナショナル・アトレチコ・クルーベ(英語版)でプレーしていた[4]。1983年から1987年にかけて、SEパルメイラスサンパウロFCコリンチャンスなどのトライアウトで9回連続不合格になった[4]。1988年、18歳の時、サンパウロFCのプリマベーラとの試合で活躍、これが目に留まり、サンパウロの下部組織に入団した[4]。入団後にサイドバックにコンバートされ、1989年にトップデビューを果たした[4]。1992年、トヨタカップでは、FCバルセロナを破り優勝、1993年、トヨタカップACミラン戦ではパリ―ニャの先制ゴールをアシストし[5]、大会連覇に貢献するなど活躍した。1994年、レアル・サラゴサに優勝への切り札と期待されて移籍するも[6]、攻撃を警戒され、対戦チームに厳しくマークされ[6]、加入後出場した数試合でチームは勝利出来ないなど[6]、レアル・サラゴサでは目立つ活躍が出来ず、1年で退団し、再び地元ブラジルに帰国し、SEパルメイラスに移籍することになる。
ASローマ

1997年、イタリアセリエAの強豪ASローマに移籍。すぐに適応し、キープレーヤーの一人になり、ファンからペンドリーノ(右サイドの支配者)というニックネームを付けられた[4]。1998年4月11日のインテル戦でセリエA初得点を決めた[4]。2000-01シーズンには、ASローマの18年ぶりとなるスクデット制覇に貢献するなど主力として活躍、218試合に出場8ゴールをあげた[2]
ACミランACミラン時代

33歳となった2003年夏にはASローマを退団し、Jリーグ横浜F・マリノスへの入団合意が伝えられたが[7][8][9]、最終的には違約金を横浜FMに支払う形で、ACミランがカフーを獲得した[10]。ACミラン移籍後は右サイドバックのレギュラーとしていきなり2003-04シーズンのACミランのスクデットに貢献するなど、主力としての変わらぬ活躍を見せることになる。また、この年にペレの選んだ偉大なサッカー選手100人、「FIFA 100」に選ばれている。

2004-05シーズン、チャンピオンズリーグ決勝では、リヴァプールに延長PKで敗れた[4]。2006-07シーズン、チャンピオンズリーグ決勝では、出場機会は無かったものの、優勝を果たした[4]。2007-08シーズン、クラブワールドカップ決勝のボカ戦では、後半途中から出場、現役生活最後のタイトルを獲得した[4]。シーズン終了後、ACミランとの契約満了に伴い退団と同時に現役引退。2008年5月18日、現役最後の試合となった、ウディネーゼ戦で1得点を決めた[4]

引退後は、指導者には転身せず、夫人と共にスポーツ代理店を経営するなど実業家となった。
ブラジル代表

1990年9月12日のスペイン戦で代表デビューを果たした[11]。その後の1994年のワールドカップでは3試合に出場[11]、決勝のイタリア戦では、試合中のジョルジーニョの故障に伴い、途中交代で[12]、優勝に貢献した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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