カピラ城(カピラじょう)とは、紀元前4–6世紀ごろに存在した小国、あるいはその土地。釈迦の出身地として著名である。カピラヴァストゥ、カピラワットゥとも(後述)。
位置については長らく忘れ去られ、20世紀になってから政治がらみの論争が起きており、学術的な裏付けのある最終結論が出ているわけではないが、いずれにせよ現在のインド・ネパール国境付近に位置する。
名称仏陀の母の夢に現われた白い象。カピラヴァストゥの象徴[注釈 1]
サンスクリット語:Kapila-vastu カピラヴァストゥ
パーリ語:Kapilavatthu カピラワットゥ
漢訳音写:迦卑羅婆率、迦毘羅婆蘇都、迦毘羅衛など多数
訳:蒼城、蒼住城、黄赤城、黄頭居処、黄髪仙人住所、赤澤国、妙徳城など
なお、カピラはある仙人(リシ)の名で、「ヴァストゥ」「ワットゥ」とは「土地」を意味する言葉である。 釈迦族の住まいがあり、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はここで育った。 地名の由来については、一説には、釈迦以前にこの地にカピラ (Kapila) という黄色い髪の毛をしたリシ(仙人)が住んでいたことからそう名づけられたという。また一説には、カピラを祀っていたことに由来する、とも。 南伝仏典によると、釈迦族の祖先である甘庶王(かんしょおう、Okk?ka、オッカーカ)はサーケタという地で王国を築いていた。しかし、その四男五女が王に追放されてヒマラヤの山側に至ると、カピラ仙がいるこの土地に落ち着き、ここで1つの王国を築いたという。その初代の王名はオッカーカ・ムカ (Okk?ka mukha) という。北伝仏典では4王子とする。
由来・縁起
釈迦晩年に、毘瑠璃王により殲滅された。西暦5世紀の初頭、法顕がこの地を訪れた際、城址はすでに荒地になっていて、わずかに民家が数10戸があったのみと『法顕伝』に記されている。 カピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、ブッダ入滅後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教やイスラム教がとってかわり、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家ではブッダのことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった[注釈 2]。
位置についての諸説