カピラ城
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.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}Kapilavastuカピラヴァストゥを出発した浄飯王が王子に会いに行くと、空中を歩くシッダルダ(パネル下段に頭部のみ見える)に遭遇し、ベンガルボダイジュの木(下左角)を与える場面[1]。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ティラウラコットピプラーワー カピラ城として提案されているティラウラコットおよびピプラーワーの位置ティラウラコットピプラーワー ティラウラコットおよびピプラーワーの位置(ネパールとの国境地域)

カピラ城(カピラじょう)とは、紀元前4–6世紀ごろに存在した小国、あるいはその土地。釈迦の出身地として著名である。カピラヴァストゥ、カピラワットゥとも(後述)。

位置については長らく忘れ去られ、20世紀になってから政治がらみの論争が起きており、学術的な裏付けのある最終結論が出ているわけではないが、いずれにせよ現在のインドネパール国境付近に位置する。
名称仏陀の母の夢に現われた白い象。カピラヴァストゥの象徴[注釈 1]

サンスクリット語:Kapila-vastu カピラヴァストゥ

パーリ語:Kapilavatthu カピラワットゥ

漢訳音写:迦卑羅婆率、迦毘羅婆蘇都、迦毘羅衛など多数

訳:蒼城、蒼住城、黄赤城、黄頭居処、黄髪仙人住所、赤澤国、妙徳城など

なお、カピラはある仙人(リシ)の名で、「ヴァストゥ」「ワットゥ」とは「土地」を意味する言葉である。
由来・縁起

釈迦族の住まいがあり、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はここで育った。

地名の由来については、一説には、釈迦以前にこの地にカピラ (Kapila) という黄色い髪の毛をしたリシ(仙人)が住んでいたことからそう名づけられたという。また一説には、カピラを祀っていたことに由来する、とも。

南伝仏典によると、釈迦族の祖先である甘庶王(かんしょおう、Okk?ka、オッカーカ)はサーケタという地で王国を築いていた。しかし、その四男五女が王に追放されてヒマラヤの山側に至ると、カピラ仙がいるこの土地に落ち着き、ここで1つの王国を築いたという。その初代の王名はオッカーカ・ムカ (Okk?ka mukha) という。北伝仏典では4王子とする。

カピラ城からヴァイシャリー(毘舎離)までは51由旬、またアノマー河(英語版)まで30由旬、王舎城からは60由旬あったという[要出典]。

釈迦晩年に、毘瑠璃王により殲滅された。西暦5世紀の初頭、法顕がこの地を訪れた際、城址はすでに荒地になっていて、わずかに民家が数10戸があったのみと『法顕伝』に記されている。
位置についての諸説

カピラヴァストゥは、法顕5世紀に、玄奘7世紀に訪れてそれについて書いたように、ブッダ入滅後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教イスラム教がとってかわり、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家ではブッダのことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった[注釈 2]


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