カピタン江戸参府
[Wikipedia|▼Menu]
アムステルダム号(復元)インディアマン

カピタン江戸参府(カピタンえどさんぷ、Hofreis naar Yedo)は、オランダ商館責任者である商館長=カピタンの、日蘭貿易「御礼」のための江戸への旅。「御礼参り」「拝礼」とも称される。
概要1609年家康朱印状19世紀初頭の浮世絵[1]

長崎オランダ商館はオランダ東インド会社日本支店で、商館長は対日貿易の維持・発展を願って、貿易業務後の閑期に江戸へ参り、将軍世子に謁見(拝礼)と献上物の呈上を行った。その際、老中若年寄へも進物を贈った。カピタンの「御礼」に対し江戸幕府側は、貿易の許可・継続条件の「御条目(ごじょうもく)」5か条の読み聞かせと「被下物(くだされもの)」の授与をもって返礼とした。

VOC商館員初の拝礼は慶長14年(1609年)の使節ニコラース・ポイク[2]駿府での徳川家康との謁見[注釈 1]であった。大御所オランダ総督親書を請けて朱印状[4]を授けた。オランダ商館が平戸に建設され、寛永10年(1633年)より毎年春1回に定例化するまで江戸参府は不定期に行われた。寛永18年(1641年)に商館が平戸から長崎の出島に移転後も参府は続けられ、寛政2年(1790年)に貿易半減に伴って4年に1回と改定された後、嘉永3年(1850年)にまで計166回行われた[注釈 2]

当初は前年の暮れに長崎を出発し、翌年の正月(旧暦正月)に江戸に到着して拝礼を行っていた。寛文元年(1661年)からは正月に長崎出島を出立し[注釈 3]、3月朔日(太陽暦で4月上旬)または15日に拝礼をするのが慣例となった。長崎への帰還は5,6月ごろで、所要日数は通常90日ほどであった。

一行の人員は、使節であるカピタンの他、オランダ人の随員は当初は書記や医師など3,4人いたが、後に書記官と医官が各1名ずつとなった。日本人は、長崎奉行所の役人から任命される正・副の検使[注釈 4]、通弁や会計を担当する江戸番大通詞と江戸番小通詞、町使2人、書記2-3人、料理人2人、定部屋小使が数人、他に日雇頭や宰領頭などがおり、規定では総勢59人となっていた。見習いとして若年の通詞が従ったこともたびたびあった。しかし、様々な名目で一行の人数はそれ以上となることが多かった。江戸参府が4年に1回となった寛政2年以降は、参府休年には参府年の半分の量の献上物を持って通詞が代参した。江戸番大通詞は、通常は年配者がその任に当たり、道中での金銭管理や他のあらゆる事柄に気を配り、カピタンの「遣銀(出費)」の出納管理も担当した。

「御条目」[注釈 5]の読み聞かせは万治2年(1659年)から始まり、寛文元年に「新文」が加えられ、寛文6年(1666年)に例文のほかに「別の条約一章」を渡された。そして延宝元年(1673年)にさらに「新加の文」が追加され、以後、この条文が用いられるようになった。カピタンへの「被下物」は、明暦元年(1655年)に小袖30領を時服として下され、以後、小袖30領の拝領が通例となった。世子が下される分は、小袖20領であった。通詞にも小袖2領が下されたが、天和3年(1683年)に「銀10枚」になり、貞享2年(1685年)に「銀5枚」と変更され、以後は銀5枚となった。

江戸での滞在は半月から1ヵ月間に及ぶ場合があった。この期間に蘭癖の諸大名や、官医や天文方、陪臣の医師や民間の学者など大勢の日本人が訪問し、通詞を介してオランダ人と様々な情報交換をした。カピタンたちとの交流を望む人々以外にも、土産物を売り込みに来る「定式出入り商人」と呼ばれる指定商人たちも訪れた。

カピタンの参府旅行中は、商館員の1人留守居役に任命して権限を委譲し、朱印状を入れた漆塗りの箱と、東インド会社の秘密書類を入れた樟(くすのき)製の箱1個を預ける。カピタンが出島に帰還した後、留守居役は重要書類の入った箱や鍵、留守中の日記を渡し、留守中の出来事を報告した。
献上物・進物豪華な献上物 - 家治明和2年、9歳未満のペルシャ牡馬を3頭所望した。

カピタンからの贈り物のうち、将軍および将軍世子に対する贈り物を「献上物」、幕府高官への贈り物を「進物」と呼んでいる。進物は、江戸滞在中に老中・若年寄・側用人寺社奉行・南北の町奉行宗門奉行長崎奉行に贈られ、長崎への帰路では京都で京都所司代と東西の京都町奉行に、大坂で大坂城代と東西の大坂町奉行のそれぞれに贈られた。その他、警固の検使・江戸番通詞のほか、江戸・京・大坂・下関・小倉の阿蘭陀宿(後述)にも若干の品々が贈られた。献上される品は、毛織物・絹織物・錦織物類といった反物が主で、他に珍陀酒[注釈 6]葡萄酒など嗜好品も多かった。

献上物や進物に使った反物の残品は阿蘭陀宿が買い取った。これを「為買反物(かわせたんもの)」または「御買せ反物」という。贈り物として使用する分よりも多くの品を江戸まで運び、残品を旅費の一部にあてるという名目で売却していた。これは習慣化・制度化されて定着し、オランダ商館の帳簿にも計上された。阿蘭陀宿の他、進物を贈られた幕府の高官も、為買反物を市価の5割増しで買い取り、それをさらに約3倍の値段で売りさばいた。献上物・進物の残品販売は、通詞が代参する参府休年にも行われていた。
江戸参府道中参府道中海路 国立民族学博物館 (オランダ)ケンペル原著『日本誌』より(元禄4年)

長崎から下関までは、当初は海路だったが、船旅の危険を避けるため、万治2年からは陸路を主とした。それぞれの旅路を

長崎 - 下関 ⇒ 「短陸路(Kort landweg)」

下関 - 室(むろ)[9]、または兵庫 ⇒ 「水路(Water reis)」

大坂・京都 - 江戸 ⇒ 「大陸路(Lang landweg)」(東海道を利用)

と称した。参府途上の京都 祇園の茶屋にて 国立民族学博物館 (オランダ)

途中宿泊する宿は、休憩か一泊するために利用するもので、大名参勤交代に準じて各宿場の本陣脇本陣が使用された。それらとは別に、江戸・京都大坂下関小倉の5都市では往路・復路ともに数日間の宿泊を許されており、それらは阿蘭陀宿と呼ばれた。

江戸 長崎屋源右衛門

京都 海老屋

大坂 長崎屋

下関 大町年寄・佐甲家、同伊藤家

小倉 大坂屋

江戸の阿蘭陀宿・長崎屋ではカピタン一行の逗留中は普請役の役人や町奉行所の同心が日夜詰めて厳重に監視し、オランダ人との接触も役人たちとの立ち合いのもとで行われた。一行に随行・警固する検使は、全てにわたってカピタンたちに指示を出す立場であったが、その検使も江戸では普請役からの指図を受け、前例の無い事柄には勘定所からの指示を受ける必要があった。

京都の海老屋は、建物がさほど大きくないため、一行を周辺の寺院や旅籠に分宿させるために毎度奔走するのだが、それとは別にオランダ人やオランダ通詞の不取締りで迷惑を蒙っていた。江戸や大坂の阿蘭陀宿のように役人の目が無いためか、カピタンたちは芸者や遊女を呼んで羽目を外すことが多かったという。

大坂では、銅座と本陣を兼ねる長崎屋を定宿とし、往路に内納しておいた贈り物を、復路で大坂に逗留する際に「本目録」をもって大坂城代と東西の大坂町奉行に差し出し、饗応を受け、使者による下され物を受けとるのが通例だった。また、日本側の主要な輸出品の1つである銅(棹銅)を造る住友(泉屋)銅吹所を見物することが慣例となっていた。その後に住友の主人から饗応されるが、この時には大勢の見物人が泉屋を取り囲み、泉屋はこれら見物人に炊き出しをふるまったという。銅吹所見物は、宝永6年(1709年)から慶応3年(1867年)の間に合計46回行なわれている。

下関では、当地の大町年寄を務める伊藤家と佐甲家が、交代で阿蘭陀宿の業務を務めた。両家とも蘭癖で有名で、一行を西洋風の趣向をもって歓待し、収集した西洋の品々を披露し、滞在したカピタンからオランダ雅名を貰った人物もいた。下関での滞在中、カピタンたちは神社仏閣の見物も行なった。

長崎街道の終点である小倉の阿蘭陀宿・大坂屋では、カピタンは出島の留守役に手紙を出して道中の経過を報告をした。

長崎手前の矢上で通詞たち出迎えの人びとに迎えられ、出島に到着すると、検使の出役を得て、荷物は出島へ搬入される。進物や反物の残品などがあった場合も、改めのうえ蔵へ入れられる。拝領の時服・夜具・手廻品・食事道具・日用品なども当日のうちに改められ、オランダ人に引き渡される。カピタンは長崎奉行所へ帰着御礼に出頭し、会計上の決算が済めば、江戸参府の全てが終了となる。なお、江戸を出立する際に旅費が不足した場合は江戸の長崎屋が営む人参座に借用を願い出て、許可を得て金を拝借し、長崎に帰着した後に長崎会所でその金額を返納するという規定になっている[注釈 7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef