カバネ
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カバネ(姓)は、古代日本のヤマト王権において、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ(天皇))から有力な(ウジ、ウヂ、氏族)に与えられた、その氏の位階・体裁・性格を示す称号である。

日本国内の公文書において公的に姓(カバネ)が存在し得たのは、1871年(明治4年)の「公用文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミヲ用フ(姓尸不称令 せいしふしょうれい)」による規制までである。
概要[ソースを編集]

姓(カバネ)は、一般的には、明治初期までの日本の特定の貴族や武士だけの、(ウヂ)の名の下に付された、何らかの位階・体裁・性格を示す称号であった(但し、姓(カバネ)・氏姓(ウヂ・カバネ)・姓字といった用語はしばしば多義的な意味合いを含むことが多く、文脈・論者によって異なる意味合いで異なる使い方をされる場合がある[1])。姓(カバネ)は、具体的には以下のような人名における太字の部分の称号である。




物部弓削守屋連(物部守屋

蘇我臣入鹿、蘇我入鹿臣[注釈 1]蘇我入鹿

藤原朝臣道長(藤原道長

源朝臣家康(徳川家康

越智宿禰博文伊藤(明治2年の明治朝廷の文書では苗字の「伊藤」の部分は小文字。同じ明治朝廷の文書でも明治4年以降は伊藤博文


カバネには「姓」という漢字表記が当てられているが、この字は先時代の中国では血縁的氏族を指し、一方で「氏」字は領土的氏族を指すものであった[3]。しかし代には両者が混同されるようになっており、日本に漢字が伝来した際こうした字義の混用も伝わった[3]。古代日本の史書では「姓」字によってウヂ、カバネ、あるいはその双方を指す場合がある[3]

古くから、カバネは氏の格を表す尊号であり序列を表すものとしても解されているが、元来はそうした序列を示す機能はなかったとも言われ、カバネがいつ頃、どのような理由で誕生したのかは厳密にはわかっていない。通説的には氏(ウヂ)の確立と共に6世紀半ば頃までには成立していたとされ、天皇(大王)から氏に、あるいは個人とその家族の単位に賜姓されるものであった。代表的な古代のカバネには(オミ)、(キミ)、(ムラジ)、(アタヒ)、(ミヤツコ)、(オビト)などがある。

684年(天武13年)に八色の姓(やくさのかばね)が制定され、上位から順に真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種に整理された。これらは奈良時代から平安時代にかけて上位の冠位を得ることができる氏と下級の氏を分けるものとして扱われ、上位のカバネを求めて改姓が繰り返された。最終的には朝臣・宿禰以外はほとんど賜姓の対象とならなくなり、また平安時代後期頃までに藤原氏に代表される特定氏族が上位の冠位を占有するようになるとともに実質的な意味合いを失っていった。

しかし、カバネ自体はその後も命脈を保ち明治時代初期まで存続した。明治維新後、日本人の人名に関する規定が整理される中で、1871年(明治4年)の姓尸不称令によって公文書においてカバネ(尸)を表記しないことが定められた。
起源[ソースを編集]

カバネの発祥の経緯は明確ではない。通説的には6世紀なかば頃までのある時期に制度として確立し、当初はヤマト王権の朝廷で政治的地位を有していた氏(ウヂ)に対し、地位・職掌に基づき与えられた称号であるとされる[注釈 2]。カバネを冠する氏(ウヂ)の起源もまた明確ではないが、『日本書紀』『古事記』(記紀)において中臣大伴などの氏名が人名に関されて記述されるようになるのは概ね応神朝以降である[6]。外国史料では確実に氏の名であろうと思われる記載が現れるのは『隋書』(7世紀成立)であり、『日本書紀』に引用されている百済系史料(『百済三書』)では欽明朝(6世紀)頃を境に日本人(倭人)の人名表記に氏名と見られるものが表記されるようになっている[7]。また、年代・読解ともに確実ではないが、考古学的史料では隅田八幡神社人物画像鏡に登場する「開中費直」が「河内直」であるとする見解があり、同鏡に記載されている癸未年という年号が503年であるとすれば[注釈 3]6世紀初頭には河内というウヂが存在し、直(アタヒ)というカバネが使用されていたと見ることができる。これらのことから、概ね欽明朝(6世紀)までには氏(ウヂ)とカバネが成立していたであろうと考えられる[9]

古代日本の史料に登場し地名や部名で呼ばれる氏(ウヂ)は原始社会に普遍的に見られる氏族とは大きく異なるものであった。氏は日本の古代国家において王権との関係性と密接な関わりを持つ政治的集団であり、その氏が冠するカバネはヤマト王権と諸氏の政治的関係の表現であった[10][注釈 4]。ヤマト王権・日本の古代国家の内部構造について厳密なことは不明であるが、恐らく天皇(大王)にある種の精神的権威を持たせて結合の中心とし、緩やかな連合体を構築した大和地方(奈良県周辺)の諸豪族と、各職業を分掌する伴造(トモノミヤツコ)で構成されていたと考えられる[12]。ヤマト王権による日本列島の統合が進み王権が強化されると共に、これらの諸豪族に一定の地位が与えられてそれが継承されるようになり、カバネが付与されて政治的組織として確立されていくようになっていったと見られる[12]。カバネと判断できる称号がヤマト王権から諸氏へ与えられるようになった時期ははっきりとはわからない。『先代旧事本紀』などの文献では垂仁天皇(第11代)ころから朝廷による付与が行われていたという記載があるが、こうした古文献の記述をそのまま史実とすることはできない[13]

カバネという言葉の語源もまた、明確にはわかっていない。「アガメナ(崇名)」「カハラネ」「カブネ(株根)」「カハホネ」「カバネナ」「カボネ」「カラホネ」などといった言葉から派生したとも、朝鮮語で「族」の意味を持つ「骨」字を日本語読みにしたものとも言われる[12]。しかし、カバネという用語が「蘇我臣」「物部連」「河内直」などのように氏名の下に書かれる(オミ)、(ムラジ)、(キミ)といった称号を指すものであったことは確実である[14]。左に挙げたような代表的なカバネは大化の改新(7世紀半ば)以前から存在したと考えられるものである[15]

各カバネの起源も同じく明らかではない。より古い時代には酋長・部族の長たちが、多くの場合は地名に尊称を付して呼ばれており、これらが後のカバネの原型であったとも考えられている(原始的カバネ)[14]。このような尊称にはヒコ(彦)、ヒメ(媛)、キミ(君)、タケル(梟師)、トベ(戸畔)、ネコ(根子)、ミミ(耳)、タマ(玉)、ヌシ(主)、モリ(守)、ツミ(積)などがある[14]。これらのうちのいくつかは『三国志』「魏書」東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に対応すると見られるものがあり、極めて古い時代から使用されていたことがわかる[14][注釈 5]。「魏志倭人伝」に見られるこれらの「原始的カバネ」が「官」の名前であり、かつ地名に彦や媛を追加した古代の人名と関係が深いと考えられることから、これらの原始的カバネは元来、尊称というだけではなく官職とも関係の深いものであったとも想定される[16]
古代のカバネ[ソースを編集]

古代のカバネは(オミ)、(キミ)、(ワケ)、(ムラジ)、(アタヒ)、(ミヤツコ)、(オビト)、国造(クニノミヤツコ)、県主(アガタヌシ)、村主(スグリ)など、およそ30種弱が知られている[13]。氏(ウヂ)に対してどのようなカバネが与えられるかは概ね祖先の出自もしくは官職によって決まったものと言われている[13]。祖先の出自によるカバネの代表例として皇別氏族に多い「臣」、神別氏族に多い「連」があり、官職によるものには「国造」「県主」「稲置(イナギ)」「史(フヒト)」「画師(エシ)」、あるいは「(何々)人」と言ったものがあるとされる[17]。このような観点は近代歴史学のものではあるが、阿部武彦によれば既に大化の改新の頃にはそのような認識が存在したらしく、古代の詔勅の中には「基の王の名をかりて伴造(トモノミヤツコ)となし、祖の名によりて臣連となす」というものがある[17]


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