カナダ住民への手紙
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カナダ住民への手紙(: Letters to the inhabitants of Canada)は、1774年から1776年の間に3度、当時のアメリカ植民地の代表である大陸会議から、ケベック植民地の住民に宛てて書かれた手紙である。手紙の目的はケベックにいる大勢のフランス語を話す住民をアメリカ独立派の側に付けることだった。この目的は結局果たされず、ケベックのみならず他の北方イギリス領アメリカの植民地はイギリス側に残った。唯一ケベック地方から得られた援助は、総計1,000名足らずの2個連隊を徴兵できたことだった。 1774年に第一次大陸会議が起草した第一の手紙、フランス語翻訳版の表紙
目次

1 背景

2 第一の手紙

2.1 大陸会議が起草した手紙

2.2 内容

2.3 配布と反応


3 第二の手紙

3.1 手紙の起草

3.2 内容

3.3 配布と反応


4 第三の手紙

4.1 手紙の起草

4.2 内容

4.3 配布と反応


5 結果

6 手紙の本文

7 脚注

8 関連項目

9 参考文献

10 外部リンク

背景

フレンチ・インディアン戦争(1754年-1763年)の結果として、イギリスはケベックを獲得したことで[1]北アメリカ大陸東海岸全域を確保し、元のフランス領カナダ植民地は東海岸の13植民地と密接な関係をもつようになった。この新しい植民地が従来のイギリス植民地とはっきり違っていたのは、民衆の大多数がフランス語のみを話すことであり、またローマ・カトリック教徒であることだった[2]。また、イギリスが征服する前は法律がフランス大陸法に基づいていたので、市民事情や法に対する感覚にも違いがあった。

1774年、イギリスの議会は「ケベック法」を始め、その後にアメリカ植民地人が「耐え難き諸法」と呼ぶことになる諸法を法制化した。ケベック法はケベックを納めるための法として1763年宣言に置き換わり、フランス系カナダ人のカトリックを信仰する権利を保証することで、ケベックにおけるイギリスの立場を強化するために使われた。歴史家の中には、この法がアメリカ植民地の独立運動にケベックの住民が参加しないようにするために予防手段として使われたと考える者が多い[3]。アメリカ植民地人はカトリックに関する条項をそれが植民地全てに導入される可能性のある楔として理解し、またケベック政府の構造に関する条項をイギリスの議会が植民地に対する支配を強め、一般に考えられる基本的権利を植民地では否定するために定めたと解釈した。
第一の手紙
大陸会議が起草した手紙 ジョン・ディキンソン、第一の手紙の起草者

1774年10月21日、耐え難き諸法に対する統一した対応を採るために集められた第一次大陸会議は、ケベック、セントジョン島ノバスコシア島ジョージア植民地東フロリダおよび西フロリダの住民に宛てた手紙を出すことを決定した。これらの植民地は全て大陸会議に代議員を送ってきてはいなかった[4][5]トマス・クッシングリチャード・ヘンリー・リーおよびジョン・ディキンソンの3人からなる委員会がこれら手紙を起草するために形成された[6]。初稿は10月24日に提出され、議論の後に委員会に戻された。10月26日に2稿目が提出され、議論で修正され採択された[5]


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