カトリーヌ・ド・ブリー
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マドモアゼル・ド・ブリー

本名カトリーヌ・ルクレール・デュ・ロゼ
Catherine Leclerc du Rose
生年月日1630年
没年月日1706年1月
職業女優
ジャンル演劇
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カトリーヌ・ド・ブリー(Catherine de Brie、1630年頃 - 1706年1月頃)は、フランスの女優モリエールの劇団で活躍した、17世紀屈指の名女優である[1]。モリエールの愛人でもあった。本名カトリーヌ・ルクレール・デュ・ロゼ。
生涯

俳優夫妻の間に生まれ、1650年に夫であるエドム・ヴィルカン(芸名:ド・ブリー)とともに、モリエールの劇団に加入した。彼女がどこで生まれ、どのように育ったかなど、基本的な情報のかなり不足した人物である[2]

同じころ、モリエールはマルキーズ・デュ・パルクとカトリーヌに言い寄ったとされる。マルキーズが彼を軽くあしらったのに対し、カトリーヌはかなり優しく好意的に接したらしい。こうしてカトリーヌとの愛人関係が始まったのは間違いないが、それがいつ始まったのかはよくわからない。当然夫であるド・ブリーは怒りを見せてもよいはずだが、残された資料にはそのような記述は一切出てこない。当時の役者たちは性的に放縦であったので相当に寛大な男であったのかもしれないし、単に文句も言えない頼りない男であっただけなのかもしれない。ちなみに、モリエールが困って、追い出そうとするほどの大根役者であったという。配役も脇役ばかりで、目ぼしいものが一つもない[3][4]

夫の間に1652年に男児を、59年に女児を儲けている。この2子はどちらともモリエールとマドレーヌ・ベジャールが名付け親になっていることから、根拠薄弱ではあるがモリエールとの不倫関係の末に生まれた子供だと勘ぐる研究者もいる[5]。モリエールの作品において、カトリーヌが最初に役を任されたのは「粗忽者」のヒロイン、セリー役であった。この役をきっかけに、彼女の「娘、恋人役」への才能が認められ、以降それを中心に演じていくことになる。第2作目の「恋人の喧嘩」でもヒロイン、リュシール役を演じた。1659年の「才女気取り」においては、マドレーヌ・ベジャールと組んでプレシューズ(才女気取り)役を演じた。同年にマルキーズ・デュ・パルクが夫とともに、一時的にとはいえマレー劇場に移ってしまったために、若い娘を演じられるのがこの2人しかいなかった。次作の『スガナレル』では、主人公スガナレルの妻役を演じ、少しずつ役の幅を広げていった[6]。1661年6月には「亭主学校」のヒロインであるイザベル役を、次いで翌年12月に「女房学校」にてアニェス役を演じ、大成功を収めた。特にアニェスの役は、引退のその日まで演じることを観客から求められるほど大成功し、「アニェスぶる(うぶな娘のふりをする)」という表現まで生まれたほどだった[7]

亭主学校の初演の10か月前、1662年2月にモリエールがアルマンド・ベジャールと結婚した。この愛人の結婚に対してカトリーヌがどのような反応を示したかは、モリエールを誹謗中傷する目的で作られた「名女優物語」なる冊子以外の記述が残っていない。以下は「名女優物語」から引用したものだが、当然その冊子の目的からして、鵜呑みにしてはならない[8]:ド・ブリー嬢はライバルの密かな計画に気がついて、己の自尊心を傷つけるこの結婚の実現を妨げようと彼女なりに必死になった。彼女にとっては無理からぬ話だが、自分より才能が劣っていると判断した小娘に愛人を譲り渡すのは、これ以上にないほど辛いことだったのだ。彼女は自分の不安をモリエールに告げ、彼をなじって困惑させた。彼はド・ブリー嬢に対して誠実な態度をとり続けたのであるが、それというのも彼女の愛情の証を前々から受けていたので、このように敬意を払う必要があったのである

ライバルとはマドレーヌ・ベジャールのこと。マドレーヌもモリエールの愛人であったが、モリエールをカトリーヌに奪われたことに恨みを抱き、アルマンドとの結婚を画策したというのが、この冊子の作者の考えであった。当然この意見が正しいとは限らない[8]

1663年の「女房学校批判」ならびに「ヴェルサイユ即興劇」においては、正反対の役柄を演じた。ヴェルサイユ即興劇においては、表裏のある偽善的な役柄を演じたが、その3年後の1666年の「人間嫌い」においては再び穏やかな娘役を演じている[9]。ところが1667年、マルキーズ・デュ・パルクがブルゴーニュ劇場に移籍してから、娘役だけを演じるわけにもいかなくなった。1670年の「町人貴族」においては未亡人ドリメーヌ役を演じ、熟女として魅力を振りまいた。モリエール最後の作品「病は気から」では陰険な後妻ベリーヌ役を演じた[10]

1673年2月17日、モリエールが死去した。未亡人アルマンド・ベジャールを中心として結束を固めた劇団は、興行収入の分配額の見直しを行った。その結果、カトリーヌの取り分は夫と合わせて半額になってしまった。カトリーヌはこの決定を、不服も言わずに受け入れたという。夫のド・ブリーは、1676年に死去した。1680年にはブルゴーニュ劇場と、モリエールらの劇団が合併してコメディ・フランセーズが創設された。彼女もこの劇団に在籍し正座員となっていたが、1684年に王太子妃の命令を受けて、お抱えの劇団(Comedie-Dauphine)に移籍することとなった。1685年に1000リーヴルの年金とともに、正式にコメディ・フランセーズから退団。1706年1月に死去。[11]
人物評

ピエール・コルネイユの弟トマがパリにいる友人に宛てた手紙には、彼女の美貌について次のような記述がある:我々はここで2人の美女の到着を待っています。この冬のシーズンで、あなたがそのみずみずしい美しさにおいて、バロン嬢と肩を並べるに違いないと思われる2人です。

バロン嬢とは、当時ブルゴーニュ劇場に所属していた美人で名高い女優のことである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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