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陰謀事件をでっち上げ、首枷をはめられて晒しものにされるタイタス・オーツ(1864年に出版された本より)
カトリック陰謀事件(カトリックいんぼうじけん、Popish Plot)は、1678年から1681年に発生したイングランドのカトリック教徒が国家転覆の陰謀を企てているという陰謀の捏造と、それに伴う集団ヒステリーの事件・社会現象である。捏造されたテロ計画が本当に存在していると信じられ、イングランドの反カトリック感情をあおって国全体がパニックに陥った。
2年半にわたってカトリックを敵視した立法・裁判が横行したが、陰謀がまったくの捏造であったことがわかると、反カトリックを鮮明にしているホイッグたちの地位を低下させた。その後、1680年代においてヨーク公ジェームズの信仰自由宣言
(英語版)や国王即位の道筋をつけることになった。清教徒革命の記憶も生々しい1670年代イングランドには、反カトリック感情が根強く残っていた。国王チャールズ2世妃キャサリンや王弟ジェームズがカトリック信仰であったことは、ジェントリやロンドン市民をいっそう警戒させ、緊張状態が続いていた。そのなかで、以下の人物が事件と混乱にかかわった。タイタス・オーツ(当時の肖像画)
タイタス・オーツ
事件の主要人物といえるタイタス・オーツ
オーツとトングが仕掛けた捏造陰謀事件は、当初ほとんど信用されなかったが、ふたつの事件を契機にいっきょに信憑性を得、最初はロンドン、次にイングランド全土に集団ヒステリーをもたらした。無実のカトリック信徒が処刑され、議会でもカトリックを排除する動きが活発になり、はては模倣犯まで現れる事態となった。 トングは、イエズス会に不満を鳴らすオーツに出所不明のパンフレットを見せた。そのパンフレットに曰く、イングランド内戦やチャールズ1世処刑(1649年)、はてはロンドン大火(1666年)まですべてがイエズス会の仕業であるという根も葉もないものであった。彼らはこれを元に、カトリックのイエズス会と長老派(ただし、長老派はプロテスタントに属する)が手を組み、以下のような陰謀を企てているという話をでっち上げた。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}イエズス会は、審査法によって公職からはじき出されている長老派と手を組み、プロテスタントの国王チャールズ2世を暗殺する計画を立てている。彼らの狙いは、カトリックの王弟ジェームズを王位につけ、プロテスタントを皆殺しにすることにある。この計画を支援するためにルイ14世が軍隊を派遣する手筈になっている。 1678年8月、オーツとトング両名はカトリック教徒の間に謀反の企てありと吹聴して回った。トングは国王チャールズ2世に上申すべくホワイトホール宮殿に赴いたが、チャールズはニューマーケット競馬場に遊覧中で留守だった。かわりに話を聞いたダンビー伯は荒唐無稽であると一蹴した。今度はオーツが治安判事ゴドフリーに会って弁舌をふるったが、これもまともに取りあってもらえなかった。それでもオーツはあきらめず、つてを頼ってコールマンに訴えたが、コールマンはゴドフリーからあらかじめ知らせを受けていたので、同様の対応しかなされなかった。 陰謀捏造は失敗したかに見えたが、2つの事件によって事態が急転した。ひとつめはゴドフリー変死の報であった。ゴドフリーは自らの剣で刺されたうえ、首を絞められた遺体で発見された。捜査の甲斐なく犯人はわからず、カトリック教徒が陰謀の情報を知る者として抹殺したのではないかと噂された。 さらに、カトリック教徒でヨーク公妃秘書のコールマンがフランス宮廷の要人と手紙で連絡を取っていたことが露見してしまった。コールマンが受け取った手紙には大金が添えられており、これが企ての軍資金で、背後にフランスがいると考えられた。もっとも手紙には、この資金をdistribute(配付)してフランスと友好関係を保つように、という旨の文言が書かれていたが、assassinate(暗殺)の資金として用いてフランスのいうがままになるように、という趣旨で広まった。このように話が歪曲して伝わった経緯は今も明らかでない。 ふたつの事件は、もとよりイングランド人の間にくすぶっていた反カトリック感情をいっきに噴出させ、ロンドンはテューダー朝時代の宗教戦争の様相を呈した。ロンドンのプロテスタントは皆殺しに遭うのだというパニックに陥った。 パニックのなかで、ゴドフリー暗殺の犯人として無実のカトリック信者数名が処刑された。カトリックへの敵意は空前の勢いとなり、オーツとトングは陰謀をいち早く暴いた国民的英雄となった。オーツの発言は神の預言であるかのように受け止められ、それをよいことに手当たり次第にカトリック聖職者を糾弾した。名指しで非難された聖職者たちは問答無用で裁判にかけられた。オーツの主張を疑問視する者はすなわち陰謀の加担者であるとされ、アイルランド総大司教オリヴァー・プランケット 野党的地位にあったシャフツベリ伯ら反カトリック急進派がこの勢いに乗って、議会や公職からカトリックを排除する審査法制定に持ち込み、ヨーク公ジェームズの王位継承権を剥奪する王位排除法案を提出した。急進派議員たちは、国王の側近ダンビー伯によって王室がフランスのルイ14世から財政援助を受けていたことを暴き、ダンビー伯を失脚に追い込んだ。この時の急進派が、後にホイッグとよばれるようになった。 翌1679年には、粉桶陰謀事件なる模倣犯まで現れる事態となった。恐慌状態下のロンドンで、長老派の不満分子がジェームズの王位継承を阻止せんと画策し、陰謀の証拠書類がカトリックの産婆エリザベス・セリアの自宅の粗びき粉を入れる桶に隠されていると主張する者が現れたのである。
発端
ふたつの事件
集団ヒステリー
粉桶陰謀事件
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