カトリック幟町教会
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世界平和記念聖堂
カトリック幟町教会
被昇天の聖母司教座聖堂


所在地広島市
国 日本
教派カトリック教会
ウェブサイト ⇒カトリック幟町教会
歴史
創設日1882年
管轄
主教区カトリック広島司教区
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世界平和記念聖堂

情報
用途教会
設計者村野・森建築事務所(村野藤吾
構造設計者内藤多仲
施工清水建設広島支店
建築面積1,230 m²
延床面積2,361 m²
階数3
高さ45m(塔部分)
着工1950年8月6日
竣工1954年8月6日
所在地広島県広島市中区幟町4-42
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分44.3秒 東経132度28分4秒 / 北緯34.395639度 東経132.46778度 / 34.395639; 132.46778座標: 北緯34度23分44.3秒 東経132度28分4秒 / 北緯34.395639度 東経132.46778度 / 34.395639; 132.46778
文化財重要文化財
指定・登録等日2006年7月5日
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世界平和記念聖堂(せかいへいわきねんせいどう)は、広島県広島市中区にある、キリスト教カトリック)の聖堂。カトリック幟町教会(カトリックのぼりちょうきょうかい)の聖堂であり、カトリック広島司教区司教座聖堂となっている。広島世界平和記念聖堂(ひろしませかいへいわきねんせいどう)とも呼ばれる。

建築家村野藤吾設計によるRC造、三廊式バシリカの教会堂で、1950年(昭和25年)8月6日に着工され[注 1]1954年(昭和29年)8月6日に竣工した。2006年(平成18年)7月5日には重要文化財に指定されている[1][2]
概要

歴史的に初めて広島にキリスト教教会が建てられたのは、まだ毛利氏が広島に本拠を構えていた1599年の頃だとされている。その後の長い禁教の時代を経て明治以降に布教が再開されるようになると、1882年(明治15年)に幟町に教会が設けられた。一時期、1885年(明治18年)には山口町に、また1889年(明治22年)には研屋町に移転した期間を挟んで、1902年(明治35年)には再び幟町にもどり、現在地の幟町148番地に落ち着いた。第二次世界大戦の終りまで広島カトリック教会は「幟町天主公教会」と呼ばれ、この地にあったのは明治時代に建てられた古い和風(日本様式)の教会堂であった[3]

その教会が1945年(昭和20年)8月6日の原子爆弾投下によって倒壊・焼失してしまうと、その時直接被爆したドイツ人主任司祭フーゴ・ラッサール(昭和23年10月25日、日本に帰化し愛宮真備〈えのみや まきび〉と改名)は、この地に原爆犠牲者を弔うだけでなく、全世界の友情と世界平和を祈念するための聖堂をあらたに建設することを思い立った[4]。このラッサール神父の発願は当時のローマ教皇ピオ12世の支持を得たあと、カトリック信者をはじめとする真に恒久平和を願う人々の共感をも呼び起こし、それが世界各地から届けられる多大な浄財や寄贈品の形となって、世界平和記念聖堂は建設された。

聖堂は鉄筋コンクリート造3階建、地下1階、三廊式のバシリカ教会堂である。地階部分は地下聖堂になっている。内陣ドームと同じ花弁型の丸屋根が特徴的な小聖堂と洗礼堂が付属し、鐘楼の高さは塔部分で45m、十字架を含めると56.4mにも達する。鉄筋コンクリート打ち放しの柱間に、中空のコンクリートブロックを充填し、鉄筋で柱梁と一体化し耐力壁としている。外装部分は、被爆地広島の川砂を使った灰色のコンクリートレンガを現場で制作して、それを積み上げた。内陣ドームの上には、地球儀を象った球の上に鳳凰フェニックス)がちょこんと乗っている[5]

表現派を代表する実力者村野藤吾の第二次世界大戦後の原点となる作品であり、戦前のキャリアを含めても会心作のひとつである[6]。2003年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定。2006年(平成18年)7月5日、丹下健三設計の広島平和記念資料館1955年、広島市中区中島町)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めて重要文化財(建造物)に指定された。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世1981年(昭和56年)2月25日に広島を訪れた際に、この聖堂にも立ち寄っている。それにより、世界平和記念聖堂は日本国内でローマ教皇訪問の栄誉を受けた数少ないカテドラル(司教座聖堂)ともなった。
建設経緯

建築設計にあたり、第二次世界大戦後の日本建築界の幕開けを告げる最大級の建築設計競技(コンペ)が行われ、2等には丹下健三ら2名が選ばれたが、1等は該当者なしとされた。そこで後に審査員であった村野藤吾が自ら設計することになったが、この経緯は建築設計競技の公平性や審査のあり方について、当時の建築界に今日まで尾を引く議論を呼んだ[7]。このため、村野は設計料の受取りを辞退している[注 2]
フーゴ・ラッサール神父詳細は「フーゴ・ラッサール」を参照

世界平和記念聖堂が建設される前にこの地にあったのは、当時幟町天主公教会と呼ばれていた古い木造平屋建ての和風(日本様式)の小さな教会堂だった[8]。1945年(昭和20年)8月6日に広島市に原子爆弾が投下されると、爆心地より約1.2kmの所にあった教会は、1936年(昭和11年)に新築された司祭館[注 3]を除いてすべて爆風で倒壊し、その後の火災によって司祭館も含めて類焼してしまう[9]。人的被害もまた甚大であり、司祭たちが傷ついただけでなく、信者たちのなかには亡くなったものもいた[注 4]

ヒロシマでその多大な犠牲を直接間接に見聞きし、原爆被害の大きさや悲惨さを直に経験したフーゴ・ラッサール神父は、原爆や戦争の犠牲者を弔うだけでなく、その慰霊の祈りが世界中の心ある人々を引き付けて友情と平和を押し進め、真の世界平和のための基点となるような聖堂を建設する必要性を痛感した[4]。その決意のもと、当時のローマ教皇ピオ12世に個人謁見して支持を取り付け、そしてさらには故国ドイツを始め、ヨーロッパアメリカブラジルアルゼンチンなどの各地でヒロシマの実情を報告し、資金協力を訴えて回った。この旅は1年有余の長きにわたるものとなった[10]

1948年(昭和23年)には朝日新聞社の後援を得て「広島平和記念カトリック聖堂建築競技設計」と銘打ち、3月28日復活祭を期してその建設計画が新聞紙上に発表されると、総額29万円という当時としては破格の賞金[注 5]が話題を呼び、聖堂建設は日本国全体の関心事となる[11]


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