この項目では、イギリスの帆船について説明しています。
スコッチウイスキーの銘柄については「カティサーク (酒)」をご覧ください。
紅茶味のキャンデーの銘柄については「カティサーク (菓子)
カティーサーク(Cutty Sark)は19世紀に建造されたイギリスの快速帆船である。カティ・サークとも表記する[1]。中国からイギリスまで紅茶を輸送する「ティークリッパー」として、いかに速く一番茶を届けるかを競った。しかしながら、その建造時期はスエズ運河の完成直後であり、ティークリッパーとして活躍した期間は汽船にとってかわられていく時期であったが、その後オーストラリアから羊毛輸送を行うウールクリッパーとして活躍した。
カティサークは現存する唯一のティークリッパーとしてロンドン近郊のグリニッジで保存展示されている。
船名の由来カティサークの船首像
カティサークとは、古いスコットランドの言葉で「短いシュミーズ」を意味し、ロバート・バーンズ (Robert Burns) 作の詩「タモシャンター」Tam o' Shanter からとられたものである[2]。
農夫のタムが馬にのって家路を急いでいると、悪魔や魔法使いが集会をしているところに出くわした。そこでタムは、カティサークを身にまとった妖精ナニーに魅了され、思わず手を出そうとした。そのとたん、にわかに空が暗くなり、魔女たちがタムを捕まえようとした。タムは馬にまたがり、命からがら逃げ出した。ナニーは馬の尾をつかまえたものの、尾が抜けてしまったため、タムは逃げのびることができた。
「カティサーク」の船首像はナニーを模したもので、その手には馬の尾に見立てられたロープ・ヤーンの束が握りしめられている[3]。また、風見鶏はカティサークを模したものである[3]。 中国とヨーロッパとの貿易を東インド会社が独占していた時代には、紅茶は18ヶ月ないし24ヶ月かけてロンドンまで運ばれてきた。この独占が1834年に終了し、中国のいくつかの港で自由貿易が出来るようになると、多くのヨーロッパの船主が中国貿易に参入してきた。とりわけ、当時イギリスの上流階級だけの高級な飲物である紅茶をいかに新鮮なまま届けるかには高い関心が集まった。最初に届けられたその年の一番茶は高値で取引され、船主や船長は莫大な利益と名誉を得ることができた。 1850年には、ついに年内に新茶が届けられた。12月3日アメリカの新鋭帆船オリエンタル号が、1500トンの新茶を積み込んでロンドンに入港し、船価の2/3にも及ぶ運賃を稼いだのである。このニュースはイギリスにとって大きな衝撃となり、このティーレースに参戦すべく、Taeping、Leander
諸元
全長:86メートル
全幅:11メートル
マスト高:15,6メートル
喫水(積載時):7メートル
総トン数 ( gross weight ):936トン
帆の総面積2,972平方メートル
積載量:通常1,325,000ポンド ( 601,010kg ) 、最大積載量は1876年に記録した1,375,364ポンド ( 623,855kg )
乗員:28名
歴史
ティーレース
ティークリッパーは外洋で高速が出せるよう、通常の帆船に比べ前後に細長い形状をしていた。港湾内で小回りの利かないこのような船型が可能となった背景には、蒸気機関を備えたタグボートが普及してきたことが挙げられる。
カティサークの誕生カティサーク
カティサークの最初の船主となったジョン・ウィリス ( John Willis ) は1850年代より Lammermuir、Whiteadder といったティークリッパーをティーレースに参戦させてきたが、勝利することは出来なかった。1868年、ジョン・ウィリスは、スコット・アンド・リントン 社に最速のティークリッパーの建造を依頼する。同社のハークレス・リントン ( Hercules Linton ) の設計による船体は高い安定性を有し、他のティークリッパーに比べ荒天時の取り扱いが容易であった。建造費用は35000ポンドであったが、リントンは16150ポンドという安い価格で受注し、採算を考えなかった結果スコット・アンド・リントン社は倒産することとなった[4]。
1869年11月22日、「カティーサーク」はダンバートン ( Dumbarton ) で進水[5]。皮肉なことに前週の11月17日にスエズ運河が開通したところであり、帆船時代は急速に終焉を迎えようとしていた。 カティサークは、中国からイギリスまで107日から122日で紅茶を輸送することができた。船倉には船員専用のベットは無く紅茶は全てブリキ製の大きな缶に詰めて湿度を乾燥する様に品質を保ち、それらを船倉の1番下の100個近く並べ置かれ船員たちはそれらの上に多くのハンモックを吊るして寝起きさせていた。船長のみが船首部分に部屋を持ったぐらいであった。とにかく品質の高いティーを1番早く運んだ船こそ良い運送費が支払えるとあり競争して成るべく短期間でインドからティーを運べば多くの利益が手に入った。その為に他の船より1日でも短い日数で着く事が大切であった。ティークリッパーとして極めて優秀な成績であったが、最短輸送期間の記録を更新することも、ティーレースに勝利することもできなかった。 1870年2月16日、ロンドンから上海へ向けて出発[6]。船長はムーディーであった[6]。新茶を積んで6月25日に上海を出発し、110日でロンドンに着いた[6]。「カティーサーク」のライバルであった「サーモピリー」は福州からロンドンまで、所要106日であった[7]。一方、汽船はより早く新茶を運んでいた[6]。 1871年は「カティーサーク」は出遅れ、9月4日の上海出発であった[7]。航海日数は107日であった[7]。 1872年は「サーモピリー」との対決となった[7]。両船共に6月17日に上海を出港[要出典]。7月17日に両船はスンダ海峡に至り、インド洋では東南東の貿易風に乗って疾走した[8]。「カティサーク」は「サーモピリー」を400海里引き離したものの8月7日には無風となり、続いて暴風雨に遭遇[9]。8月15日、「カティーサーク」は舵を失ってしまった[10]。仮舵が作られたが、その間に「サーモピリー」に追い抜かれることになった[11]。結局、上海からの所要日数は「サーモピリー」より1週間多い123日であった[12]。この航海の後、乗船していた船主の弟と舵を失った際に意見の対立が生じたことが原因でムーディー船長は辞職した[13]。ムーディーの辞職に伴い、元船長であったムアが復帰して「カティーサーク」船長となった[14]。 帆船は石炭を搭載する必要がないため積載量が大きく、給炭地に寄航する必要もない。また蒸気船の船体に用いられる鉄は紅茶を劣化させると信じられていたために、蒸気船が普及した後も、しばらくの間は帆船が紅茶輸送の主役であった。しかしスエズ運河の開通により、状況が大きく変化した。スエズ運河はほとんど無風であり、帆船が通過できないのである。そのため、紅茶輸送の主役も蒸気船へと移行していく。 新茶輸送の担い手が汽船に代わると、ティークリッパーはオーストラリア向けの貨物輸送を行うようになった[15]。「カティーサーク」も11月26日にロンドンからメルボルンへ向かった[14]。それから上海へ向かって茶を積み、1873年7月9日に上海を出発[16]。ロンドンまでの日数は117日で、遅れて出発した「サーモピリー」にも抜かされていた[14]。
ティークリッパーとして