カティンの森事件
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カティンの森事件
ソビエト連邦によるポーランド侵攻第二次世界大戦中)とソビエト連邦によるポーランド国民への弾圧(英語版)中
ドイツ国防軍によって発掘された犠牲者の遺体(1943年撮影)
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場所 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国スモレンスク近郊カティンの森(ロシア語版、英語版)、カリーニン
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国ハリコフの捕虜収容所など
日付1940年4月-5月
標的ソビエト連邦によるポーランド侵攻で捕虜となったポーランド軍将校国境警備隊隊員、警官、一般官吏聖職者
攻撃手段戦争犯罪(捕虜殺害)
死亡者22,000
犯人 ソビエト連邦内務人民委員部(NKVD)(通念)
ドイツ国防軍(1990年までのソビエト連邦、2022年以降のロシア側の見解)[1][2]
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カティンの森に建設された慰霊碑と、犠牲者の名前が記された銘板を使った歩道

カティンの森事件(カティンのもりじけん、ポーランド語: zbrodnia katy?ska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦スモレンスク近郊に位置するカティンの森(ロシア語版、英語版)などで約22,000人[3]又は25,000人[4]ポーランド軍将校国境警備隊隊員、警官、一般官吏聖職者が、ソビエト内務人民委員部(NKVD)によって虐殺された事件[5]。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

NKVD長官ラヴレンチー・ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長であるヨシフ・スターリン政治局の決定で実行された[6][7][8][9]。カチン(Katy?)とも表記される。
概要

ソ連は1939年にポーランドに侵攻し、旧ポーランド東部地域を侵略・併合[10]。多数のポーランド人捕虜をソ連領内に連れ帰り[10]、1940年春、あるいは同年4月?5月頃に虐殺した[11][12][4][13]。1941年6月22日からドイツ国防軍ソ連に侵攻し、1943年2月18日にスモレンスク近郊でソ連によるポーランド人虐殺現場を発見した[14]1943年4月にドイツは「カチンの森で1940年4月頃殺害されたと推定される多数のポーランド将校の射殺死体を発見した」と発表した[15][16]。それに対しソ連側は、ソ連に侵攻したドイツ軍が1941年8月又は同年秋頃に虐殺したと主張した[8][17]

「カティン」は現場近くの地名であり、事件現場はグニェズドヴォの方が距離的に近かったが、発音の言いやすさや覚えやすさから、ドイツがこの虐殺事件を表す名称に用いた[18]。ソ連は在ロンドンポーランド亡命政府に同調を要求したが、逆に亡命政府は赤十字国際委員会による真相究明のための調査を要請したため、ソ連はそれを拒否し、1943年4月26日に亡命政府との外交関係を断絶した[8][19][14][20][21]

1945年11月から始まったニュルンベルク裁判でも虐殺の責任をドイツに押し付けようとした[22]。1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について、ドイツによる戦争犯罪かどうか討議が行われたが、ソ連の主張は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[23][24]

ソ連は戦後もカティンの森事件をドイツの仕業と主張し続けた[25]。しかし、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、1987年4月に両国歴史家の合同委員会でカティンの森事件に関する合同調査が検討されることになった[26]。合同調査後の1990年4月、ソ連は事件の非を認め、公式にポーランドに謝罪した[27]

更には1992年10月にロシア政府は、ポーランド人2万人以上の虐殺をスターリンが署名し指令した文書を公表し、事件はソ連が実行者であることが確定した[8][23][28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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