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カッパドキア(ラテン語: Cappadocia)はトルコの中央アナトリアの歴史的地域、あるいはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。
古代の地理においてCappadocia(「美しい馬の地」を意味するペルシア語: Katpatukに由来、トルコ語: Kapadokya, ギリシア語: Καππαδοκ?α)は、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。ヘロドトスの時代には、「カッパドキア人」がタウロス山脈から黒海)までの全域をなしていた。この意味でのカッパドキアは、南ではタウロス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた。だが、その境界を正確に定義することは不可能である。その国の多少とも詳細な記録を記したただ一人の古代の著述家ストラボンは、その大きさを非常に誇張したが、現在は長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられている。
由来カッパドキアのカルスト状の山
カッパドキアという呼称の最初の記録は、紀元前6世紀後半に遡る。そこでは、2人のアケメネス朝初期の王ダレイオス1世とクセルクセス1世について3言語で書かれた碑文に、ペルシア帝国を構成する一地方(古代ペルシア語でdahyu-「州」)として現れている。地方についてのこれらの一覧の中で、古代ペルシア語での名称はKatpatukaであるが、ペルシア固有の言葉でないことは明らかである。エラム語とアッカド語版の碑文も、類似の名称を含んでいる。
ヘロドトスは、カッパドキア人という名称はペルシア人(しかるに、彼らはギリシア人によって「シリア人」「白いシリア人」(Leucosyri)と呼ばれた)によって用いられたと伝えている。彼が言及したカッパドキアの部族の一つはw:en:Moschoiであり、彼らはフラウィウス・ヨセフスによると、旧約聖書の人物ヤペテの息子メシェク(Meshech)に結び付けられ、ここにある「マザカ」という都市はメシェクが訛ったものとされた(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章の解説より[1]。『ミシュナー』のw:en:Ketubot 13:11も参照。)
ペルシア帝国後期の皇帝の支配のもとで、彼らは2つのサトラペイア、すなわち行政区に分割された。中央と内陸の部分を含む一方に対して、ギリシアの地理学者によってカッパドキアの名前が使われ続け、そして他方はポントスと呼ばれた。この分割はクセノフォンの時代以前に既になされていた。ペルシア帝国滅亡後も2つの州は分離され続けたので、両者の区別は恒久化された。カッパドキアは内陸の州(時に大カッパドキアと呼ばれる)に限定され、これのみが本稿の焦点となる。
カッパドキア王国はストラボンの時代すなわち紀元前1世紀にはまだ名目上は独立国として存在していた。キリキアはその国全体の首都であるカエサレア・マザカ(現在のカイセリ)が位置する地域に与えられた名前である。ストラボンは、カッパドキアの中で2つの都市のみが名を挙げるにあたいすると考えた。それは カエサレア(元はマザカとして知られた)とテュアナw:en:Tyanaで、タウルス山脈の麓から遠くない位置にあった。
歴史熱気球から観たカッパドキアの奇観
カッパドキアは、後期青銅器時代にハッティ人として知られ、ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となった。
ヒッタイト帝国の滅亡の後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後のシリア系カッパドキア人の衰退によって、カッパドキアは強固な城に住み、農民を奴隷状態においた、一種の封建貴族の軍政に委ねられた。これは後に、彼らをして、外国の奴隷制度に適した者とした。
カッパドキアはアケメネス朝のダレイオス1世によって設置された区画の中で第3サトラペイアに含まれた。しかし、誰もその地方全体に対して明確に至上な存在ではなく、ペルシア王に対してほぼ完全に従属した地元の支配者たちによる統治が長く続いた。
紀元前4世紀中頃にはサトラップのダタメスによって徹底的に抑えられた。後に彼はペルシア王に反旗を翻したものの、敗死した。カッパドキアは、一人の統治者アリアラテス1世のもとで独立を回復した。彼はアレクサンドロス3世と同時代の人であり、アケメネス朝が滅びた後も、カッパドキアの王位を維持した。
この地域にアレクサンドロスが訪れることはなかった。彼は、小アジアから出発する前にアリアラテスによってなされた彼の統治権への従属的承認で満足した。そして、土着王朝の継続はアレクサンドロスの死後の短い期間のみ中断された。なぜならその時、帝国の全体的な分割の中で、王国はアリアラテスの許可を得ることなくエウメネスのものとなったからだ。彼の権利は、アリアラテスを磔刑にした摂政のペルディッカスによって紀元前322年に履行された。しかしエウメネスの死をもたらした紛争の中で、アリアラテスの息子は遺産を回復し、それを後継者の血統に残した。
アリアラテス4世の治下に、カッパドキアは共和政ローマとの関係を持つにいたった。最初はセレウコス朝のアンティオコス3世の主張を支持し敵対者として、それからマケドニア(アンティゴノス朝)王ペルセウスに対抗する同盟者としてである。
王たちはこれ以後、それまで折々に従属してきたセレウコス朝シリアに対抗して、共和政ローマと同盟した。アリアラテス5世はローマのプロコンスル(前執政官)プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌス(en)とともにアッタロス朝(ペルガモン王国)の王位主張者アリストニコス(エウメネス3世に対して軍を進めたが、彼らの軍は殲滅された(紀元前130年)。彼の死後の混乱は最後には、勃興するポントス王国の介入と王朝の崩壊に終る陰謀と戦争を招いた。 カッパドキア属州の位置
カッパドキア人は、ポントス王ミトリダテス6世に対してローマの支援を受けつつ、地元の後継領主にアリオバルザネス1世を選任した(紀元前93年)が、第三次ミトリダテス戦争でミトリダテス6世が敗死し、ティグラネス2世(アルメニア王)がローマへ屈服するまで、彼の支配は確立されなかった。
ローマの内戦中には、カッパドキアはグナエウス・ポンペイウスに組し、次にはガイウス・ユリウス・カエサルにつき、またマルクス・アントニウスに従い、そして彼に対抗した。アリオバルザネス王朝は終わりを迎え、その代わりにアルケラオスという人物が、始めはアントニウスの、次に初代ローマ皇帝アウグストゥスの支援によって統治した。この従属的独立は紀元17年まで維持されたが、ティベリウス帝の時代、アルケラオス王の不名誉な死とともに、カッパドキアはついにローマの属州となった。