カッテリーノ・カヴォス
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カッテリーノ・アルヴェルトヴィチ・カヴォス
Катерино Альбертович Кавос
カッテリーノ・カヴォス(19世紀の肖像画)
基本情報
生誕1775年
ヴェネツィア共和国ヴェネツィア
出身地 ヴェネツィア共和国
死没1840年
ロシア帝国サンクトペテルブルク
ジャンル古典派
職業作曲家オルガニスト指揮者
著名使用楽器
オルガン

カッテリーノ・カヴォス(: Катери?но Альбе?ртович Ка?вос, : Catarino Camillo Cavos, 1775年10月30日 ? 1840年5月10日旧暦4月28日))は、イタリアに生まれ、ロシアで活躍した作曲家オルガニスト指揮者。 カーヴォスとも。マリインスキー劇場を設計した建築家アルベルト・カヴォス(en:Alberto Cavos, 1800年 - 1863年)はカッテリーノの子[1]

ヴェネツィアに生まれ、1799年よりサンクトペテルブルクでイタリア・オペラやロシア・オペラの合唱オーケストラの指揮者として活動し、レパートリー形成や歌手音楽家の育成など、ロシアのクラシック音楽史において重要な役割を果たした[2]。また、ミハイル・グリンカが作曲したオペラ皇帝に捧げた命』に先立つ20年前に同じ題材のオペラ『イヴァン・スサーニン』を作曲したことでも知られる[3]
生涯
生い立ち

1775年ヴェネツィア生まれ。父アルベルト・ジョバンニ・カヴォスはフェニーチェ劇場の首席バレエダンサー兼監督だった[1]

カヴォスは作曲家フランチェスコ・ビアンキ(en:Francesco Bianchi, 1752年 - 1810年)に師事し[4]、12歳のときレオポルト2世のヴェネツィア訪問を祝してカンタータ作曲した[5]。14歳のとき、サン・マルコ寺院オルガニストに推されたが、カヴォスはこれを断り、年上の貧しい音楽家に同ポストを譲った[6]
ロシアへ

20代前半に、アスタリティというイタリア・オペラ一座に指揮者として加わり、1797年に一座とともにサンクトペテルブルクに旅する[6]。一座はほどなく解散したが、カヴォスはサンクトペテルブルクに魅せられてこの地に留まり、ロシアの帝室劇場の一員としてフランス・オペラ一座のオペラ・ヴォードヴィルのための作曲を手がけるようになる[7][6][8]

1803年、ロシア皇帝アレクサンドル1世によってカヴォスはボリショイ・カーメンヌイ劇場(石の大劇場)のイタリア・オペラ及びロシア・オペラの楽長に任命される[7][6]。同年、ステパン・ダヴィドフとともに『レスタ、ドニエプルのルサールカ』四部作(1803年 - 1807年)を加筆し、カヴォスはその第2部を担当した[9]。また、聖カタリーナ学校や、後にスモルヌイ修道院(en:Smolny Convent)で教授を務めた[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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