カチューシャの唄
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この項目では、大正時代に流行した日本の楽曲について説明しています。

ロシアの楽曲については「カチューシャ (曲)」をご覧ください。

AKB48の楽曲については「Everyday、カチューシャ」をご覧ください。

『カチューシャの唄』(カチューシャのうた)は、1914年大正3年)に発表された日本歌謡曲、ならびに同楽曲を題材にした同年製作公開の日本の短篇映画である。楽曲の作詞は島村抱月相馬御風、作曲は中山晋平。劇団芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。また『復活唱歌』の題名で、松井の歌唱によるレコードが発売された。歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となった。お使いのブラウザーでは、音声再生がサポートされていません。音声ファイルをダウンロードをお試しください。
楽曲解説

ヨナ抜き音階の伝統的な日本の音楽表現や、リード形式の西洋音楽の手法を取り入れている。歌詞は5番まであり、曲の途中で民謡の囃子言葉のように「ララ」と扱って、曲全体を引き締めている[1]

作詞は島村と相馬の名義である。1番は島村が作詞し、2番以降は相馬が作詞したものであるが、当初は島村が手掛けていたのにもかかわらず、うまくいかなかったので相馬がまとめる形になったと、後に藤浦洸は芸術座の俳優であった笹本甲午から聞いている[2]

一方、中山はこの作品が作曲者として初めて世に出した作品であった。島村は書生として寄宿していた中山に「学校の唱歌ともならず、西洋の賛美歌ともならず、日本の俗謡とリードの中間のような旋律を考えて欲しい」[3]「誰にでも親しめるもの、日本中がみんなうたえるようなものを作れ」[4]と依頼した。そのようなメロディが思い浮かばずに悩んだ中山であったが、1か月ほど経った頃に詞の合間に「ララ」と合いの手を織り交ぜるアイディアが浮かび、島村の許可を得た上で若干の変更を加えた末に完成させた[3]

『復活』の上演では、第1幕で松井と横川唯治が歌い、第4幕で松井と宮部静子が歌うため、主に歌ったのは松井である。松井は首を少し傾げて両手で手拍子を取りながら情感を込めて歌っていたが、当時、広島で実際に公演を見た藤浦は後にレコードを聞いて「女学校の唱歌のよう」[2]であったと評している。

松井の死後も他の人々によって歌われるようになり[注釈 1]平成になってからもソウル・フラワー・モノノケ・サミット1997年(平成9年)に発表したアルバム『レヴェラーズ・チンドン』でカバーしている。令和になってもアイドルグループ開歌-かいか-が第一回定期公演「歌の咲く青山」(2019.9.8)でカバーしている。[5]
歌詞

歌詞は数々の新聞で五線譜とともに発表された。上演当日に、劇場の廊下に歌詞を大きく書いた紙を貼り出すと、それをメモしようと客が群がり、合唱となったエピソードもある[6]。中山の生誕地である長野県中野市の中山晋平記念館には、この歌の歌碑がある。

当時は歴史的仮名遣いが用いられていたが、ここでは現代仮名遣いで表記する。作詞者は島村が1918年、相馬が1950年に、作曲者は1952年に亡くなっているために、本楽曲に関するベルヌ条約に基づく著作権は消滅している。
カチューシャかわいや わかれのつらさせめて淡雪 とけぬ間と神に願いを(ララ)かけましょうか

カチューシャかわいや わかれのつらさ今宵ひと夜に 降る雪のあすは野山の(ララ)路かくせ

カチューシャかわいや わかれのつらさせめて又逢う それまでは同じ姿で(ララ)いてたもれ

カチューシャかわいや わかれのつらさつらいわかれの 涙のひまに風は野を吹く(ララ)日はくれる

カチューシャかわいや わかれのつらさひろい野原を とぼとぼと独り出て行く(ララ)あすの旅

大流行の背景
好評を博した「復活」上演

不倫関係が表面化したことで、文芸協会を脱退して芸術座を結成した島村と松井であったが「わがままでヒステリック」と評されたこともある看板女優の松井の言動がもとで、芸術座は『復活』の公演の前にたびたび分裂騒動を起こしていた。『復活』の公演は1914年の3月に帝国劇場で始まったが、興行成績は芳しくなかった。興行成績次第では一座を解散するとも噂されていたが、4月以降に大阪や京都での公演には、観客が連日大挙し、人気を博した。

その後に行われた長野富山金沢や広島、横浜や東京の歌舞伎座東京座などでの公演も成功を収め、4年間で上演回数は440回を越えたが、この背景には、当時世界中で注目を集めていたトルストイの思想を目にしようという目的の学生[7]や、新しく変わった大正時代を肌で感じようとした大衆の心理があった[8]

劇場公演から流行歌が生まれた前例としては、1910年(明治43年)に自由劇場で、1913年(大正2年)10月に帝国劇場で公演されたゴーリキーの『夜の宿』挿入歌である「どん底の歌」(ロシア民謡、作詞:ゴーリキー、訳詞:小山内薫)が流行したケースがあるが「カチューシャの唄」ほど大規模に流行した例はなかった[9]
レコードによる影響

「復活唱歌(カチューシャの唄)」
松井須磨子シングル
B面復活セリフ
リリース1914年5月上旬[注釈 2]
規格シングルレコード(SP盤)
録音1914年4月23日?25日の間[注釈 3]
京都・東洋蓄音器録音スタジオ
ジャンルショー・チューン
レーベルオリエント・レコード
作詞・作曲作詞:島村抱月相馬御風
作曲:中山晋平

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この盛況の様子を見た東洋蓄音器(オリエント・レコード)は、松井の歌と劇の一部を吹き込んでレコードにした。蓄音機自体が高価で普及率が低く、数千枚売れれば大当たりと言われた当時でも2万枚以上を売り上げたという説もある。なお『大阪毎日新聞』が1915年3月13日付で報じたところでは、発売後10か月間の売れ行きは2000枚であったという。ただし、この記事はレコードの吹き込み料金に関するものである。前後の文脈から判断して「枚」は「円」の誤植だとすると、松井の吹き込み料が2000円という意味とも考えられる[12]

当時は吹き込みによる印税契約の制度がなかったが[13]、芸術座は完成したレコードをさらなるヒットに生かした。島村は各公演先で初日の前に文学講演会を行い、自らの演劇論を主張する一方でレコードを流し、観客の心を掴んだ[14]

さらに、この楽曲の大流行を目にした島村が、芸術座の舞台において劇中歌の挿入を決めたことにより、後に公演するツルゲーネフ原作の舞台『その前夜』の挿入歌として「ゴンドラの唄」を製作するに至った。
大衆への影響
歌本・楽譜

この曲の流行には楽譜書生節の影響を受けた演歌師による歌本も大いに貢献した[15]

楽譜は1914年6月1日、敬文堂書店から定価5銭で出版された。


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