カタルーニャ独立運動
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スペインにおけるカタルーニャ州(赤)カタルーニャ独立旗「アスタラーダ分離主義者が主張するイベリア半島の民族分布。この論に立つ場合、スペイン人は諸民族の大部分を統合する概念となる。

カタルーニャ独立運動(カタルーニャどくりつうんどう)は、スペインからのカタルーニャ州独立を目指す政治運動である。スペイン中央政府がカタルーニャ民族を軽視するような言動を繰り返したこと、カタルーニャ州が税金として支出する金額とスペイン中央政府から還元される金額に大きな隔たりがあること、この2点が理由で2010年代に独立運動が盛んになった[1]カタルーニャ・ナショナリズムの一つの形態である。

特に2017年カタルーニャ独立住民投票に関連しては、後述する中央政権と州政府の激しい対立と、その結果としての自治権の一時廃止、州首相の事実上の亡命に至ったことから海外メディアでは「カタルーニャ危機(紛争)」に相当する "Catalan crisis"、"Catalan Conflict" などの名称が用いられることが有る。
歴史

前史については「カタルーニャ州#歴史」を参照。
2010年-2012年「2010年カタルーニャ自治抗議」も参照2010年カタルーニャ自治抗議の際のバルセロナ

2006年には2006年カタルーニャ自治憲章(スペイン語版)が制定された。この自治憲章は2005年9月のカタルーニャ州議会で賛成120(CiU、PSE、ERC、ICV)、反対15(PPC)で可決され、2006年6月の住民投票ではカタルーニャ州住民の73.9%の賛成票によって承認された[2]。しかし、スペイン国会では右派の国民党(PP)がこの自治憲章案を激しく攻撃しており、いったんは国会下院で賛成189(PSOEなど)、反対154票(PPなど)で可決されたものの、国民党は自治憲章が違憲であるとしてスペイン憲法裁判所(英語版)に提訴した[2]

約4年間の審議を経て、2010年6月28日には憲法裁判所がこの自治憲章をスペイン1978年憲法と照らし合わせて違憲であるとする判決を下した[3][2]。カタルーニャ州においてスペイン国家からの独立主張自体は古くから存在し、長らくカタルーニャ州住民の20%に満たない支持率で推移していたものの、違憲判決はカタルーニャ社会に衝撃を与え、2010年半ばには独立主義の支持率が際立って上昇した[4]。7月10日にはカタルーニャ州の州都バルセロナ中心部で抗議デモ「2010年カタルーニャ自治抗議」が行われ[5]、このデモはカタルーニャ語の「私たちは国家(nation)だ。私たちが決める」(Som una nacio. Nosaltres decidim.)をスローガンとした[6][4]。地元警察はデモの参加者数を110万人、主催者は150万人と発表し[7][8]マドリードに拠点を置く『エル・パイス』紙は42万5000人と推定した[9]。バルセロナ市長はこの人数が「前例のないことである」と述べ[10]、バルセロナに拠点を置く『エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ』紙は「カタルーニャで行われた抗議行進としては最大クラスであることは疑いの余地がなく、史上最大であるかもしれない」とした[7]カタルーニャ民族主義の指導者は、2010年7月10日のデモがカタルーニャ州とスペインの関係の転換点になったとしている[11]カタルーニャ州において独立のための自治体協会に加盟する自治体(赤)

2009年9月13日から2011年4月には、カタルーニャ州内の数百の自治体で独立に向けた拘束力のない住民投票が行われ、独立に賛成する投票が圧倒的多数を占めたが、投票率自体は27.41%と低かった。2011年から2012年には「支払いたくない」(No vull pagar)キャンペーンなどの市民運動が起こり、運動はカタルーニャ州から同じカタルーニャ語圏のバレンシア州バレアレス諸島州にも飛び火した[12][13]。2011年12月14日には国家としての権利や自己決定権の促進のために、バルセロナ県ビックで独立のための自治体連合(英語版)が公式に設立された[14]。さらに、2012年中には197の自治体が自由カタルーニャ領域(英語版)を宣言し、「スペインの法律や規則はスペインのみに影響を持つ。そのため、我々はカタルーニャ州政府やカタルーニャ州議会による新たな法律や規則を待つ」とした。

2010年までのカタルーニャ州政府カタルーニャ社会党(PSC)などの左派政党が連立政権を担っていたが、2010年11月28日に行われたカタルーニャ州議会選挙ではカタルーニャ民族主義政党が議席数を伸ばし、集中と統一(CiU)のアルトゥール・マスが州首相に就任した[15]。翌年の2011年スペイン議会総選挙では、より中央集権的な右派の国民党(PP)が左派のスペイン社会労働党(PSOE)から政権を奪い、マリアーノ・ラホイスペイン首相に就任した[4]。国民党のラホイ政権発足後の2011年末から2012年初頭には、カタルーニャ州のあるべき政治的地位を問う世論調査で初めて「独立」が「連邦州」や「自治州」を上回った[4]
2012年カタルーニャ独立デモ詳細は「2012年カタルーニャ独立デモ」を参照2012年カタルーニャ独立デモで振られる独立旗アスタラーダ

カタルーニャ州において「9月11日」はディアーダ・ナシウナル・ダ・カタルーニャ(カタルーニャ国民の日)と呼ばれる祝日である[16][17]スペイン継承戦争末期の1714年9月11日、バルセロナ包囲戦の末にバルセロナがスペイン王国フランス王国連合軍の手に落ち、スペイン国家内で自由を奪われたことを記念している[16][17]


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