カタルーニャ民主連合
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 カタルーニャ州の政党
カタルーニャ民主連合
Unio Democratica de Catalunya(UDC)

党首Josep Antoni Duran i Lleida[1]
書記長Ramon Espadaler
院内代表Roger Montanola
創立1931年11月7日
合併元UC-DCC(1977年)、
CiU(1980年-2015年)
本部所在地バルセロナ
青年部Unio de Joves
政治的思想キリスト教民主主義
Christian humanism
保守主義
社会的市場経済主義
Europeanism
政治的立場中道右派
欧州議会会派欧州人民党
国会下院議席0 / 350
国会上院議席0 / 265
自治州議会議席0 / 135
欧州議会1 / 54ヨーロッパのための同盟内で
公式サイト
UDC
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カタルーニャ民主連合(カタルーニャみんしゅれんごう、カタルーニャ語: Unio Democratica de Catalunya、UDCまたはUnio)はカタルーニャ州を主たる活動領域とするスペイン政党で、その創設は1931年である。2015年に政党連合集中と統一が解体するまで、カタルーニャ州の政党カタルーニャ民主集中(CDC)と政党連合を構成していた[2]。青年組織はUnio de Joves(若者の連合の意)。

UDCはカタルーニャ民族主義キリスト教民主主義を基盤にする政党であり、中道・穏健主義のカタルーニャ主義を党是としており、それゆえに独立を明示的な形では宣言しておらず、スペイン国家が独立権を有する複数の主権実体(これにはカタルーニャも含まれる)による複合的な連邦国家化を支持している。党員・協力者の数はおよそ7,500人。

1990年以来、ジュゼップ・アントーニ・ドゥラン・イ・リェイダ(スペイン語版)が党首として同党を率いている。
党史
創設

UDCの創設は第二共和国期の1931年11月7日で、カタルーニャ主義(スペイン語版)とキリスト教精神を基盤とする政党として、また公表はされなかったが、バルセロナの保守的な日刊新聞『アル・マティー』(カタルーニャ語版)においてジュゼップ・O・アンゲーラ(Josep O. Anguera)、ペラ・アルダリウ(Pere Arderiu)、シャビエル・アラゴー(Xavier Arago)、ペラ・アラガイ(Pere Aragai)アステーバ・ファレー(Esteve Farre)、ジュゼップ・M・ファレー(Josep M. Farre)、アンジャル・グラウ(Angel Grau)、ジュアン・ギナート(Joan Guinart)、ジュゼップ・M・ムドゥレイ(Josep M. Modolell)、ジャウマ・ムレーラ・ミリャレット(Jaume Morera Millaret)、アンジャル・ムレーラ(Angel Morera)、マヌエル・プゲス(Manuel Pugues)、パウ・ルメーバ・イ・ファレー(Pau Romeva i Ferrer)、ジュアン・バティスタ・ロカ・イ・カバイ(Joan Baptista Roca i Caball)、マウリーシ・サライーマ・イ・ブフィイ(Maurici Serrahima i Bofill)、ラモン・スニェー(Ramon Sunyer)、マヌエル・ティオー(Manuel Thio)、ラモン・トリンシェト(Ramon Trinxet)、リュイス・ビラ・イ・ダバダル(Lluis Vila i d'Abadal)、ジュゼップ・ビラプラーナ(Josep Vilaplana)の署名入りの声明文をもとに設立された。1932年半ばにはUDCに新たな参加者が表れた。その中にはかつてのアクショー・カタラーナ(スペイン語版)の活動家マヌエル・カラスコ・フルミゲーラ(スペイン語版)やミケル・コイ・イ・アラントルン(スペイン語版)、ジュゼップ・マリーア・トリーアス・イ・ペイチ(Josep Maria Trias i Peitx)、フェリックス・ドゥラン・イ・カニャメーラス(Felix Duran i Canameres)の姿も見られた。

UDCの党員の多くはカルロス主義(スペイン語版)の信奉者であったが、その伝統主義運動がカタルーニャ自治憲章(スペイン語版)を支持する宣伝活動を認めなかったためにその運動から脱退した者たちであった;アクショー・カタラーナの場合は党が共和国憲法(スペイン語版)を支持する投票を行った結果、宗教に対する考え方の違いで党員が離党;またその他のグループから、たとえば地域主義連盟(スペイン語版)やカタルーニャ共和主義左翼からも少数派が合流した。

UDCはスペイン革命真っ只中に行われた1931年総選挙(スペイン語版)の後の共和国設立のための憲法制定会議において1人の議員(マヌエル・カラスコ・フルミゲーラ)を、1932年の自治州選挙(スペイン語版)後のカタルーニャ議会に1議席(パウ・ルメーバ・イ・ファレー)を獲得した。

その一方で、UDCは少数労働組合で1934年にキリスト教をバックボーンとして設立されたカタルーニャ・キリスト教徒労働者連合(カタルーニャ語版)との関係を急速に深めていった。
第二共和国と市民戦争

第二共和国期を通じてUDCはその穏健的な立場を保持し続けた。

例えば、左派勢力が推し進めた、小規模農家のためにrabassa morta定期借地権契約を所有地により近いブドウ畑の貸借契約に変更することを促す1934年の耕作契約法(Ley de Contratos de Cultivo)を支持した。これはカタルーニャ共和主義左翼に近い農業労働組合のRabassaires連合(Unio de Rabassaires)によって要請された方策の一つであった。この法律はカタルーニャでは地域主義連盟の強い反対にあった。その後、「暗黒の2年間」と呼ばれたアレハンドロ・レルー率いる急進共和党とホセ・マリーア・ヒル=ロブレスの自治右派連合の連立政府統治下で憲法保証裁判所(Tribunal de Garantias Constitucionales)によって、この法律は無効とされた。

それに対して、1934年10月6日、新共和国政府による「耕作契約法」の撤回という脅しの後、カタルーニャ政府首班のリュイス・クンパンチは「スペイン連邦共和国」内の「カタルーニャ国家」設立を宣言した時、UDCは支持しなかった。

1936年7月17日軍部によるクーデターが失敗し、バルセロナにおいて翌7月18日にスペイン内戦の火ぶたが切られた。このころの政治状況は、UDCにとって厳しいものであったが、共和国を支持する声明を発表しつつ、カタルーニャ民族主義の考えも保持、反乱側はUDCにとって敵となった。一方カトリシズムを奉じることは共和国政府を支持する労働者階級に対して、不審を抱かせた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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