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(国旗)(国章)
カタルーニャ君主国の版図(1349年 - 1640年)
公用語カタルーニャ語
首都バルセロナ
バルセロナ伯
947年 - 992年ボレイ2世
1131年 - 1162年ラモン・バランゲー4世
1162年 - 1196年アルフォンス1世
(アラゴン王アルフォンソ2世)
1479年 - 1516年フェラン2世
(アラゴン王フェルナンド2世)
1700年 - 1746年フェリプ4世
(スペイン王フェリペ5世)
変遷
フランス王ユーグ・カペーへの臣従の拒否987年
アラゴン連合王国の成立1137年
スペイン連合王国の成立1479年
ピレネー条約(北カタルーニャの喪失)1659年
スペイン王国内における自治権の喪失1716年
カタルーニャ君主国またはカタルーニャ公国(カタルーニャ語: Principat de Catalunya, アラン語: Principautat de Catalonha, アラゴン語: Prencipato de Catalunya, スペイン語: Principado de Cataluna, フランス語: Principaute de Catalogne, ラテン語: Principatus Cathaloniae)は、イベリア半島北東部にかつて存在した国家。現在は大半がスペインのカタルーニャ州に属し、一部がフランス南部ピレネー=オリアンタル県となっている。「君主国」ないし「公国」という呼称については後述する。
カタルーニャ君主国は、レコンキスタ時代に生じたスペイン辺境領の別々の伯爵領が、バルセロナ伯の支配下で連合したものである。1137年、アラゴン女王ペトロニラ(パルネリャ)とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、アラゴン連合王国の一部と見なされるようになったが、実際はカタルーニャ君主国とアラゴン王国は対等な関係であった。ラモン・バランゲー4世の子アルフォンソ2世は、アラゴンではアラゴン王ではあったが、カタルーニャではバルセロナ伯アルフォンス1世を名乗った。
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}カタルーニャ君主国という呼称はスペイン第二共和政時代まで使用されたが、君主制との歴史的関係を理由に使用されなくなった。現在でも時折使われることがある。[要出典] イベリア半島の地中海沿岸地方のように、古代ギリシャ人がロザス(現ジローナ県の自治体)を植民地化した。ギリシャ人・カルタゴ人はどちらもイベリア人住民に影響を及ぼした。カルタゴの敗退後、ローマ属州ヒスパニアの一部となり、首都タラッコ(現在のタラゴナ)がイベリア半島におけるローマの駐屯地となった。アラゴン王国の家系を示す絵。ラモン・バランゲー4世と女王ペトロニラ、2人の長男であるアルフォンソ2世が描かれている。 ローマ帝国の崩壊後、事実上西ゴート族が支配したが、8世紀にアルアンダルスのムーア人が権力を掌握した。太守のアブドゥル・ラフマーン・アル・ガフィキワ軍が732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで退けられると、ムーア人が治めていたかつての西ゴート王国領をフランク人が征服した。そしてカタルーニャ北部の諸伯領とは同盟関係を結んだ。795年、カール大帝はスペイン辺境領の名で知られる緩衝地帯を創設した。この緩衝地帯は、地元諸侯が治める別々の小王国からなるセプティマニア地方を越え、ウマイヤ朝支配下のアルアンダルスのムーア人とフランク王国間の防衛用の盾にされた。 カタルーニャ文化は中世に発展を始めた。カタルーニャ北部の至る所で小さな伯領が組織され、これらの弱小国からカタルーニャ文化が生まれた。
カタルーニャの成立