カタルーニャの歴史
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カタルーニャ歴史について述べる。
先史時代カタルーニャ最古の人類の痕跡が残るアラゴ洞窟

カタルーニャ地方に残る最古の人類の痕跡は、トータヴェル(現フランス・ピレネー=オリアンタル県)近郊のアラゴ洞窟(カタルーニャ語版)に残るリス氷期(約30万年前)のものである[1]。中期旧石器時代(紀元前8万年-紀元前3万5000年)にはカタルーニャの大部分にネアンデルタール人が住んでおり、後期旧石器時代(紀元前3万5000年-紀元前1万年)にはカタルーニャ全体で5,000-8,000の人口があったとされる[1]。旧石器時代にはカタルーニャ北東部(ジルネース、アンプルダー)と南部(バッシュ・カム、プリウラット)に居住者が多く、地方外のバレンシアガンディア(いずれも地中海沿岸で現バレンシア州)などの地域とも交流があった[1]

新石器時代(紀元前6000年-紀元前3000年)にはムンサラット文化が生まれ、集団埋葬が行われた[1]青銅器時代(紀元前3000年-紀元前2000年)には大きな部族が誕生し、北部では巨石記念物の文化が発達した[1]鉄器時代(紀元前2000年-紀元前1000年)にはケルト人ピレネー山脈を超えてやってきて、火葬の文化や金属加工の技術をもたらした[1]
古代ローマ時代に建設されたタラゴナの水道橋

エーゲ海のロドス島からはギリシア人がやってきて、紀元前776年にはカタルーニャ北東端のロザス湾に面するロザスに植民市を建設した[1]。紀元前575年頃には小アジアのポカイア人がアンプリアスを建設している[1]

カタルーニャはローマ人のイベリア半島征服の拠点のひとつとなったが、カルタゴ人と衝突して地中海沿岸で領土争いを繰り広げた[2]第二次ポエニ戦争の紀元前218年にはカルタゴのハンニバルがカタルーニャを通ってローマに進軍したが、紀元前216年にはローマがエブロ川以北の土地を占領し、そこにタラコ(現・タラゴナ)を建設した[2]。紀元前197年にはイベリア半島の北半分にヒスパニア・キテリオル属州(共和政ローマ期)が設置され、ローマ人はこの地方のローマ化を推進した[2]。タラコに加えてバルセロナトゥルトーザという3つのローマ植民市が建設され、ローマ人は旧ギリシア植民市の港を流用した[2]。タラコはヒスパニア・キテリオル属州から再編されたヒスパニア・タラコネンシス属州(帝政ローマ期)の首都となり、ローマ支配下のイベリア半島でもっとも重要な都市だった[2]

3世紀以後には北方からフランク族などがタラコネンシス属州に侵入し、5世紀には農民の反乱が興って多くの町が放棄された[3]。480年以降には西ゴート族がカタルーニャを含むイベリア半島の占領を進めていった[3]。テウディス(531年-548年在位)は短期間バルセロナを拠点としたが、後継者のアタナギルドはトレドに首都を移し、589年にはイベリア半島が統一されて西ゴート族の中央集権国家が誕生した[3]。カタルーニャは周縁の地位に甘んじ、一方で一定の独立性を保った[3]
中世9世紀のスペイン辺境領

711年にはイスラーム教徒ムーア人がイベリア半島に侵入すると、その分遣隊はわずか数年間にリェイダ、ジローナ、タラゴナ、バルセロナが相次いで征服した[4]。カタルーニャはイスラーム教徒の支配下に入り、リュブラガット川以北の「旧カタルーニャ」ではイスラーム教徒の支配が100年間にも満たなかったが、リュブラガット川以南の「新カタルーニャ」は12世紀半ばまでイスラーム教徒の支配下にあった[3]

785年にはカロリング朝フランク王国カール大帝軍がジローナを征服し、801年にはフランク王国のルイ1世(敬虔帝)軍が包囲戦の末にバルセロナを征服した[5][4]。これによって旧カタルーニャがフランク王国に編入され、795年にはイスラーム勢力に対する緩衝地帯の役割を果たすスペイン辺境領が設置された[5]。878年にはギフレー1世(スペイン語版)(多毛伯)がバルセロナ伯に任ぜられ、後の歴史家はギフレー1世がカタルーニャの初代君主であると考えている[5]。ギフレー1世はその子孫がバルセロナ伯を継承する世襲制を確立させ、この王朝は1412年まで続いた[5]。985年から988年にはイスラーム勢力のアル=マンスール軍がバルセロナの町を破壊して略奪したが、これに対してフランク王国が救援を行わなかった。このことがきっかけでバルセロナ伯はユーグ・カペー西フランク王として承認することを拒否し、987年にカタルーニャ君主国が生まれた。カタルーニャが主権への道を歩み出したのはこの1000年頃であるとされる[5]
カタルーニャ君主国イベリア半島におけるレコンキスタの経過

カタルーニャ君主国には封建制が定着していき、他のキリスト教勢力とともにレコンキスタ(国土回復運動)に関与した[6]。1090年にはタラゴナ、1148年にはトゥルトーザ、1149年にはリェイダがキリスト教徒の手に戻り、1153年にはカタルーニャ君主国の境界がエブロ川まで南下した[6]


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