カタリナ・ルター
ルーカス・クラナッハ画(1526年)
生誕カタリナ・フォン・ボラ
1499年1月29日
神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領
リッペンドルフ
カタリナ・ルター(Katharina (Katherine) Luther, 旧姓:カタリナ・フォン・ボラ/Katharina von Bora, 1499年1月29日[1] - 1552年12月20日)は、修道女、宗教改革者のマルティン・ルターの妻。 小さな貴族の家柄に生まれたカタリーナは、幼少期に親を失い女子修道院に預けられ、ヴィッテンベルクから100キロほど離れたニンブシェンという街でシトー会の修道女となった[2]。 当時の修道院ではカトリックの修道制度を批判するマルティン・ルターの著作が密かに読まれており、ルターが語る信仰に感銘を受けたカタリナを含む9人の修道女たちは、1523年の復活祭の直前に、ルターと交流のあった出入り商人の手を借りニシンの塩漬けの空樽に身を潜めて脱出した。その時カタリナは26歳であった[2][3]。 復活祭の直後に脱出した修道女たちはヴィッテンベルクのルターを訪れ、彼の世話もあって一般民衆として結婚し家庭に入っていった。そこで一人残されたカタリナは1525年6月に当時41歳であったルターと結婚した。なお、一生涯の独身を請願したはずである修道士や修道女の結婚はカトリック教会において大罪である[2][3]。 夫との間には三男三女(ヨハネス、エリーザベト〈生後8か月で死去〉、マグダレーナ〈13歳で死去〉、マルティン、パウル、マルガレーテ)をもうけた。家庭は円満で、一家は以前ルターが暮らしており1524年に贈与されたアウグスチノ修道院の建物に住んだ。修道院の空き部屋を学生や客に貸したり、ビールを醸造したりすることで家計を支えていた[4]。 夫の死後、ペストの流行から逃れるためにトルガウ
生涯
カタリナは結婚し夫の助け手としてルターに従った夫人であり、宗教改革の家庭観において重要な人物である。プロテスタントは聖書に根拠がないとして聖職者の独身制を否定し、そのため教役者は結婚するようになったが、カトリック教会側はこれを非難した。ルターは教皇の神学者らに対し、結婚して満ち足り、子供が与えられて幸せだと反論した[5]
参考文献
徳善義和『マルチン・ルター??信仰と生涯』教文館、2007年。
徳善義和『マルティン・ルター??ことばに生きた改革者』岩波新書、2012年。
中村敏『著名人クリスチャンの結婚生活―ルターから三浦光世・綾子夫妻まで』ファミリー・フォーラム・ジャパン、2009年。
マルテ・リノ 著・寺園喜基 訳「ルターの宗教改革精神と心の回復」『福岡女学院大学大学院人文科学研究科紀要「臨床心理学」』第15巻、福岡女学院大学大学院人文科学研究科、2018年3月31日。
脚注[脚注の使い方]^ あくまで推定であり、正確な出生日を示す証拠は発見されていない。
^ a b c 徳善 2007, pp. 186?187.
^ a b 徳善 2012, pp. 148?149.
^ リノ 2018, pp. 48?49.
^ 中村 2009.
表
話
編
歴
マルティン・ルター
業績
『免罪符と恩寵についての説教』
『神はわがやぐら』
『トルコ人に対する戦争』
『大教理問答書』
『ルター聖書』
『奴隷意志論』
『キリスト者の自由』
『教会のバビロニア捕囚』
『小教理問答書』
『秘跡の崇敬』
『キリストの体と血の秘跡-狂信に対抗して』
『十字架の神学』
『95か条の論題』
『ドイツのキリスト者貴族に与える書』
『キリストの晩餐に関する信仰告白』
『世的な権威』
『ミサの形式』
『ドイツ式ミサ』
『農民の殺人・強盗団に抗して』
シュマルカルデン条項
『ユダヤ人と彼らの嘘について』
『ヴォム・スケム・ハムポラス』
『議会と教会の上に』
主題
アウグスブルク信仰告白
デケトゥ・ロマヌム・ポンティフィケム(破門状)
ヴォルムス帝国議会 (1521年)
エクススルゲ・ドミネ
ルーテル教会
ルターのバラ
神聖同盟
ルターのマリア神学
ルターの反ユダヤ主義
制定の言葉
宗教改革のプロパガンダ
ルター神学
二つの王国
人物
マインツのアルベルト
バルトロメオス・アルノルド
デジデリウス・エラスムス
ゲオルク・ルーアー
ヨハン・コクレウス
ヨハン・スタウピッツ
ユストゥス・ヤナス
ルターの両親
カール・フォン・ミルティツ
カタリナ・ルター
フィリップ・メランヒトン
レオ10世