カタコンブ・ド・パリ
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カタコンブのランプ台地図

カタコンブ・ド・パリ (Catacombes de Paris)は、フランスパリの地下納骨堂カタコンベ)。 旧市街の城門たるアンフェール門(「地獄門」)の南側、あるいはパリ14区ダンフェール=ロシュロー広場ないしダンフェール=ロシュロー駅の南側至近に位置する。地下納骨堂にはおよそ600万人の遺骨が納められており[1]、パリの地下採石場の名残であるトンネルと改造された洞窟が遺骨で埋められている。18世紀後半に一般公開され、19世紀初頭から地下墓地は小規模な観光名所となった。1874年以降は定期的に公開されている。内部を荒らされる事件が続いたため、2009年9月に一般公開が中止され、同年の12月に再開された[2]

カタコンブ・ド・パリは、パリ市内にあった大規模墓地を閉鎖した際に発掘された遺骨の単なる移転場所であり、当初から実際に死者の埋葬に使われたことはない。それにも関わらずカタコンブと呼ばれているのは、古代ローマの地下墓地から類推しての名称である。カタコンブの正式名称はロシュエール・ミュニシパル(l'Ossuaire Municipal)、すなわち市営納骨堂である。

全長はおよそ1.7km、地下20mの場所にあり、2008年のカタコンブ・ド・パリ訪問者数は約24万人であった[3]。パリの博物館の1つであり、2002年5月よりカルナヴァレ博物館が管理を行っている[4] · [5]パリ・メトロ及びRER B線の最寄り駅はダンフェール=ロシュロー駅
歴史
背景サン・イノサン墓地

ローマ時代以降、パリでは郊外に死者を埋葬してきたが、キリスト教が伝来するとその習慣はあらためられ、教会の地下や周囲にある聖別された土地に埋葬を行うようになった。10世紀からパリの教区墓地の多くが都市部につくられたが、人口が密集して墓地の拡張が困難となり過密化した。12世紀の初め、この状況を改善しようとして、教会に埋葬料を払えない人々のための中央集団埋葬墓地が開設された。これがサン・イノサン墓地(en)である。

サン・イノサン墓地が歴史上に記されるのは5世紀、メロヴィング朝の信仰の地であったノートルダム・デ・ボワ教会の周囲である。これは885年から886年のヴァイキング襲来で破壊されたとみられ、11世紀にはサン・オポルテューヌ教会が代わってこの地にあった。したがって、この教会は右岸の教区から死者を引き取って埋葬していた。墓地には教会堂があったが、1130年ルイ6世が大規模な教会に改築し、ヘロデ大王の命令でユダヤ人の幼児が殺害された幼児虐殺にちなんでサン・イノサン教会と名付けた。墓地名もこれにちなんでいる。1137年にはルイ6世の命令で、パリの市場がこの近くに集約されて中央市場(レ・アル・ド・パリ、現在のパリ1区東側界隈)となり、ここは重要な地域となった。

この墓地はサン=ドニ通り、フェロンヌリー通り、ランジュリー通り、ベルジェ通りに囲まれ、約1300年間にわたってパリ市内の22教区から数十世代にわたるパリ市民の遺体、旅人や貧民のための医療施設であるオテル・デューや(en)死体安置所からの遺体を受け入れていた。田舎の小さな墓地は、次第にパリ最大の墓地となり、建物に囲まれたパリでも最も賑やかな地区に数えられた。戦争、疫病、飢餓によって、この小さな空間に数千の死体が埋められた。よって死体が有機的に分解されるのが困難となった。集団墓地は10フィート以上の深さに達し、18世紀の終わりには、集団墓地は通りよりも2m以上高くなっていた。これが安全上の問題を引き起こしたことが長期にわたって報告されている[6]

埋葬者で満杯になった墓地の一区画を発掘したところ、それはもうひとつ別の区画を覆っていることがわかった。化学的な腐敗を早める目的でしばしば土に石灰をまき、直接遺体が埋められた。そのため有機物が腐敗する過程で生ずる残留物が、当時の主要な水の供給源であった井戸に流入する状況をつくっていた。ベルジェ通りから見た墓地
(1786年)

17世紀、サン・イノサン教会周辺の衛生状態は耐え難いものとなっていた。聖職者たちが教会と教区の最大の収入源として、墓地が満杯でも最も人気のあるパリに埋葬を続けたためである。そのときまで、墓地は4つの区画全てが、周囲に広大な大量埋葬地を備えていた。骨に付いていたすべての肉を分解するために十分な時間が必要だったからである。一度1区画を空にしたのちに再び使用したため、既に飽和状態になっていた。

常に数千体の遺体を有機分解させることは、疫病の広がりを促進させることになった。1554年以降、パリ大学医学部の医師たちは、墓地の存在でもたらされる疫病の危険性を訴えたが無駄であった。1737年、王立科学アカデミーの医師たちは分析を行い、単に長年にわたって蓄積されたものではない住民の苦情を確認している。最後の墓堀人であったフランソワ・プルランは、30年間で9万体の遺体をサン・イノサン墓地に埋葬したと主張している[7]

18世紀の随筆家はこの地区のことを、「ワインは一週間たたないうちに酸っぱくなり、食べ物は数日で駄目になる。井戸水は腐敗した物質で汚染されており、使用するにはますます不向きである。」と記している。ヴォルテールは「死者を埋葬する論理的でない方法が人々を健康にするのか」と宗教当局を非難した。

1765年、パリ高等法院はパリ市内での埋葬を禁止した。ローマの伝統が復活し、8箇所の墓地が郊外に造られた。墓地の使用を制限する一連の効果のない法令は、わずかしか状況を改善できなかった。1780年初め、興味深い現象がサン・イノサン墓地の周囲のワイン貯蔵庫で起きた。死体が腐る過程で生じる気体が墓地の壁を通り抜けてワイン貯蔵庫に入り込み、獣脂製ロウソクの灯を消してしまうというのである。汚れを取り去るため、墓地に隣接する地区のワイン貯蔵庫で地下室の壁に石灰をまくことが決められた。しかし同年の5月30日、重大な事件が起きた。墓地に隣接するランジュリー通りのワイン貯蔵庫の地下室の壁が、コミューンの墓穴に納められた何千もの死体の圧力で倒壊したのである[8]。さらに、経済的な理由からも墓地閉鎖の気運が高まった。墓地と接しているレ・アル地区には市場がなかったため、これが首都の経済的中心地の再開発と、日夜非常に混雑する地区の流れを改善する機会となった[7]

1785年11月9日、国務院は、遺骨の除去をともなうサン・イノサン墓地閉鎖、そして地域の再開発を決定した。


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