カストラ
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カストラ(ラテン語: castra、複数形[1])およびカストルム(ラテン語: castrum、単数形)とは、古代ローマにおいて軍事防衛拠点または野営地として使用された場所または建設された建物群を指す。この単語はラテン語だけでなくオスク語ウンブリア語(どちらもイタリック語派)にも見られ[注釈 1]インド・ヨーロッパ祖語からイタリック語派へと伝わったものと見られる。カストラは「大規模な野営地」を意味し、行軍途中などの一時的なものも、砦または要塞のような恒久的なものも指す。一方、ウェゲティウスが記しているようにカステッルム (castellum) は「小規模な砦」を意味し、その地域の補給部隊などが使うことが多かった[2]ギリシア語の文献では、カストラを stratopedon(軍の野営地)、カステッルムを phrourion(砦)と訳している。カストラは一般には「古代ローマの要塞」、「古代ローマの砦」、「古代ローマの野営地」と称されるが、学問的にはカストルム/カストラを「野営地」または「要塞」とし、カステッルムを「」とするのが一般的である[3]ハドリアヌスの長城の途中にあったカストラの平面図そのカストラの遺跡
種類

最もよく知られている種類のカストラとは、行軍中や戦闘中以外の兵士たちが寝泊りし、その装備や兵站を蓄えておく野営地または軍事都市である。軍団が戦場に赴く際、毎日帰ってこられる適切な場所にカストラを建設しておくのが決まりだった。

「……行軍して敵地に到着するやいなや、戦いの前に彼らは野営地を壁で囲む。彼らの設置する塀は間に合わせの粗末なものではないし、囲いの中の配置も無作為ではない。選んだ場所が平らでない場合、最初に整地を行う。野営地は四角形になるよう測量され、大人数の大工が道具を手につき従い、建設を行う。[4]

このため、行軍の隊列の中にはカストラの建設資材や兵站を運ぶ馬車の一隊も含まれ、兵士の後について行った。

野営地建設は各種専門技術者が属する工兵隊で、architecti(技師長)がそれを監督した。また、建設に必要とされる肉体労働には一般兵士が駆りだされた。敵の攻撃にさらされた野営地は、簡単なものでは数時間で撤収できるようになっていた。カストラには tertia castra(3日間の野営地)、quarta castra(4日間の野営地)など、その場所で軍団が過ごすであろう期間に対応したいくつもの建設プランが用意されていた[5]

より恒久的なカストラとして「カストラ・スタティヴァ(常設野営地)」がある。それより恒久性が低いものとして、「カストラ・アエスティヴァ」または「アエスティヴァリア」すなわち「夏季野営地」があり、そこでは兵士たちは「テントに (sub pellibus または sub tentoriis)」寝泊りした。夏は遠征の季節だった。冬になると兵士たちは「カストラ・ヒベルナ」に後退した。こちらには兵舎などもっとしっかりした施設があり、石積みの城壁もあった。

野営地はローマ兵が休息し、兵員を補充する場だった。ケルト人ゲルマン人の軍隊にはこのような仕組みがなかった。したがって彼らは集結して数日後には分散する必要が生じた。その間、無防備な野営地は守備が不十分な場合に攻撃されることがあった。
語源specula または vigilarium(見張り台)。カストルムの一種。古代の見張り台は壁と堀で囲まれていた。[6]

ユリウス・ポコルニー編の『印欧語源辞典』の kes- (palatal k) の項によると、オスク語の castrous (属格)とウンブリア語の castruo, kastruvuf (主格)はどちらも本来はカストルムと同義で、地所または土地を意味したという。これらは個人所有の不動産を意味する語と見られるが、ラテン語の castrum は柵や木製または石製の壁で囲まれた土地を意味すると見られ、コルネリウス・ネポスの著作の一節にもそのような記述がある[7]

American Heritage Dictionary ではユリウス・ポコルニーの記述を踏襲した後、*kes- の語源として "cut"(切る)を挙げている。カストルムは土地を切り取って (cut off) 軍用に供することを指すという見方もできる。「カストルム・モゴンティアークム(現在のマインツ)」のように軍事基地全体を指すこともあれば、要塞化された単一の建物を指すこともある。後者の例であるカステッルム (castellum) が後に英語で城を意味する "castle" となった。

ラテン語の "castrum" は地名にもよく使われた。例えば、Castrum Album、Castrum Inui、Castrum Novum、Castrum Truentinum、Castrum Vergium などがある。

複数形の「カストラ」は複数の建物の集合体を指して使われた。初期の野営地は皮革や布を切り取ったテントを設営したものだったと考えられ、カストルムは1つのテントを指し、カストラはテント群を指したと考えることもできる[1]。完全に恒久的な軍事基地を除いて、多くのカストラは外形が四角形であり、番号の付いた通りに沿ってテントや兵舎が置かれ、そこに兵士が寝泊りした。その後カストラという語は、「行軍中の野営地」、「一時的な野営地」、「恒久的な野営地」、「要塞化した野営地」、「要塞」などを指す語となり、常に多人数の野営を意味している。

カストラも Castra Cornelia のように地名によく使われた。また、ウィンチェスターランカスターなど、英語の地名の語尾によく見られる -caster や -chester はカストラに由来する。

castra についての一般的なラテン語のシンタグマは次のとおりである。

カストラ・スタティヴァ (castra stativa): 恒久的な野営地/要塞

カストラ・アエスティヴァ (castra aestiva): 夏季の野営地/要塞

カストラ・ヒベルナ (castra hiberna): 冬季の野営地/要塞

カストラ・ナヴァリア (castra navalia) またはカストラ・ナウティカ (castra nautica): 海軍の野営地/要塞

スペイン人の氏名およびスペイン/イタリア/バルカン半島の地名によく見られる「カストロ」もカストルムに由来する。例えば、アルバニアジロカストラもその1つである。
設計と構成カストラ・スタティヴァの門を復元したもの。狭間胸壁、ローマ式アーチ、turres()がある。
出典と起源

古代ローマの野営地が当初から1つの理想形に基づいて建設されていたことは、同時代の2つの資料にある。1つはヒュギヌス・グロマティクスの De Munitionibus Castrorum(偽書の可能性あり)[8]で、もう1つはポリュビオスの著作である[9]ウェゲティウスも堀で囲まれた野営地について記述を残している。使われている用語には違いがあるが、基本設計はどれも同じである。「リグ・ヴェーダ」にはアーリア人が鉄器時代のインドに侵入して作った村の様子が描かれているが、カストラの設計はそれによく似ている。これはインド・ヨーロッパ民族以外が同様の設計を使わなかったという意味ではない。エトルリアを起源とする仮説もある[10]
配置古代ローマのカストルムの基本設計。
(1)Principia
(2)Via Praetoria
(3)Via Principalis
(4)Porta Principalis Dextra
(5)Porta Praetoria(正門)
(6)Porta Principalis Sinistra
(7)Porta Decumana(裏門)

野営地の理想形は直線的な設計である。1軍団かそれ以下の規模の軍の野営地は正方形、2軍団の場合は長方形で、その場合各軍団の本部が隣り合わせになっていて、全体を2分してそれぞれの軍団が使用するようになっていた。配置を決定するのは、 と呼ばれる decempedae(10フィート)と呼ばれる測量用の棒を使う技師たち (metatores) と、グロマと呼ばれる照準器(垂直な棒の先に十字形の水平な部分があり、その先端に錘をつけた糸をたらしたもの)を使う技師たち (gromatici) である。理想的には配置はまず中央の本部テントまたは建物 (principia) から始める。通りや他の部分は色つきのペナントや棒で示した。
壁と堀マサダのカストラ。 典型的な四角形のレイアウトになっている。

カストラは攻撃への備えも構造に組み込んでいた。

基地 (munimentum) は全体が防壁 (vallum) に囲まれるよう配置された。この防壁は軍団が戦闘隊形で防御している中でも必要に応じて建設可能である。防壁は四角形で、基本的には東西南北に各辺が向くよう配置される。建設隊は溝 (fossa) を掘り、その土を溝の内側に積み上げることで塁壁 (agger) を形成する。その上に一種の杭(sudes または valli)を立てていって柵を形成する。この杭は行軍の際に一緒に運ぶ必要がある[11]。その野営地に長期間滞在する場合は、柵がレンガや石でできた壁に置換され、溝もよりしっかりした掘に置換された。軍団規模の野営地には常に壁に沿っていくつかの塔が置かれ、塔と塔の間に投石機部隊が配置された。
隙間

防壁 (vallum) の内側にはある程度の幅で何もない空間が配置され、これを intervallum と呼ぶ。これには敵の飛び道具(矢や石)を捕らえる役目があり、また牛 (capita) や戦利品 (praeda) をここに置いた。一般兵は敵襲があったときすぐさま防壁の所定の位置につく必要があったため、intervallum に面した辺縁帯に寝泊りした。一般兵の宿舎の内側には Via Sagularis(sagum は奴隷の着る外套を意味するため、「側道」の意と見られる)と呼ばれる通りがある。
通り、門、中央市場カストラ・スタティヴァの東門を復元したものイギリスのテンプルボロにあったローマ砦の再現画像

全ての野営地には中央を南北に貫く幅広い通りがあった。かつてカストラがあった都市の目抜き通りの名称から、古代ローマではこの通りを cardo または Cardus Maximus と呼んでいたと見られている。


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