カザン
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「カザン」のその他の用法については「カザン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

カザン
Казань
Казан




市旗市章

位置

タタールスタン共和国内のカザンの位置
位置
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ロシア連邦内のタタールスタン共和国の位置

座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯55度45分0秒 東経49度7分0秒 / 北緯55.75000度 東経49.11667度 / 55.75000; 49.11667
歴史
建設~1005年
行政
ロシア
 連邦管区沿ヴォルガ連邦管区
 行政区画 タタールスタン共和国
 市カザン
市長?lsur Met?in
地理
面積 
  市域639 km2
標高116 m
人口
人口(2021年現在)
  市域1,308,660人
  備考[1]
その他
等時帯モスクワ時間 (UTC+3)
郵便番号420xxx
市外局番+7 843
ナンバープレート16, 116
公式ウェブサイト : ⇒http://www.kzn.ru/

カザン(: Каза?нь[2]、カザーニ、タタール語: Казан[3])は、ロシア連邦タタールスタン共和国首都。人口は約130万人(2021年)。モスクワから東へ800km、ヴォルガ川(クイビシェフ湖)とカザンカ川の合流点に臨む商工業都市で、水上・陸上交通の要衝。タタール文化の中心であり、カザン・クレムリンをはじめとする多くの文化遺産カザン大学などの教育機関が集積している。イスラム教キリスト教が混在しており、多文化、多宗教な都市である。
名称

カザンという地名の由来は定かでない。タタール語でカザン(qazan)とは、文字どおりには「ボイラー」「大鍋」という意味である。

タタール語で溝を掘るという意味の「qaz?an」から転じた可能性もある。また「qazan」とはもともと中華鍋のように大きく、より重くより頑丈な、ある種の大鍋を指す言葉だった。カザンの町はU字型の低地の底に位置するため、こうした地形との共通点から大鍋に由来する地名が付いたとも考えられている。

よりロマンチックな地名説話もある。タタールの王女であったスュユンビケ(Soyembika)は、金でできた大皿(カザン)を洗っていたときに川に落とし、その地に現在のカザンが建っているという。

さらに、チュヴァシ人の伝説にはブルガール人の王子であるフサン(Khusan, Хусан, ハサンというムスリムの人名のチュヴァシ語読み)が登場しており、フサン王子の名にちなんでチュヴァシ人はカザンのことをフサン(Хусан)と呼ぶとされる。
歴史
カザンの歴史の概要カザン・クレムリン

11世紀初頭にヴォルガ・ブルガールによって建設された。15世紀にはカザン・ハン国の首都として栄えたが、1552年カザンはイヴァン4世(イヴァン雷帝)に占領される。破壊されたカザン・ハン国の城砦のあとにはカザン・クレムリンが建設された。1708年にカザン・ハン国が廃止され、カザンはロシア帝国の地方都市、カザン県の県都となった。1774年プガチョフの乱で破壊された。

20世紀になり、カザンはタタール文化の中心都市として復興した。ロシア革命後の1920年タタール自治共和国の首都となる。第二次世界大戦中は疎開により各種の工場が移転してきており、工業が発展している。1930年代から1970年代にかけて都市改造が行われた。2005年には建都1000年を記念して様々な祭典が催され、地下鉄が開業した。
町の始まり市内に広がるカバン湖

カザンの初期の歴史については記録が乏しいため、カザンはヴォルガ・ブルガールが中世に築いたのか、あるいはジョチ・ウルスタタール人が15世紀半ばに築いたのか、という論争が長い間続いている。この論争の背景には、ヴォルガ流域の民族のアイデンティティを巡る問題がある(ブルガール論争も参照)。もしこの地にブルガール人の都市があったとすれば、カザンの歴史は11世紀初期から13世紀末期に遡ることになる。ヴォルガ・ブルガールにとってこの地はフィン・ウゴル系民族(マリ人ウドムルト人)との境界であった。もう一つ論争となっているのは、カザンの城塞はもともとどの場所に作られたかである。考古学者による発掘は、カザン市内の三か所に集落の跡を発見してきた。ヴォルガ川とカザンカ川の合流点にある現在のクレムリの内部、クレムリからはカザンカ川を挟んで対岸にあたるジランタウの丘(Zilantaw、[4]ジラントフ修道院がある)、クレムリの南の市街地中心部にあるカバン湖(Qaban)の近く、の三か所である。うち最も古い集落跡はクレムリン内部のもので11世紀に遡る。

11世紀から12世紀にかけて、カザンの前を流れるヴォルガ川はスカンジナビアからペルシャ方面やギリシャ方面へ向かう交易路であり、カザンはその水路を守る砦だった可能性がある。また交易拠点であった可能性、この地方に入植してきたブルガール人の大きな都市があった可能性もある。ただし、ブルガール人の首都は、当時ははるか南のブルガール(Bol?ar、現在のボルガル市付近)にあり、カザン周辺は彼らにとって辺境であった。

13世紀前半、モンゴルの襲来で、ブルガールおよびビリャルといったブルガール人の都市はことごとく廃墟と化し、北のカザンに逃れる人が増えた。ブルガール人はジョチ・ウルスの支配下に入り、カザンはブルガール人の諸侯国の一つの中心になった。やがてブルガール人はタタール化してゆき、ブルガール人の諸侯国もタタール人が公位を簒奪する事態も生まれた。タタール人の中にはヴィータウタスに招聘されてリトアニア大公国へ向かった者もおり(リプカ・タタール人)、カザンのようなタタール人の地にもリトアニアの影響力が及ぶようになった。


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