カエターノ・ヴェローゾ
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カエターノ・ヴェローゾ
Caetano Veloso
カエターノ・ヴェローゾ、アンブリア・ジャズにて ( イタリアペルージャにて。)
基本情報
出生名Caetano Emanuel Viana Telles Veloso
生誕 (1942-08-07) 1942年8月7日(81歳)
出身地 ブラジルバイーア州サント・アマーロ・ダ・プリフィカサォン
学歴バイーア連邦大学
ジャンルMPB
職業シンガーソングライターギタリスト
担当楽器ギター
活動期間1967年 -
共同作業者ジルベルト・ジルシコ・ブアルキ
公式サイト ⇒www.caetanoveloso.com.br

カエターノ・エマヌエウ・ヴィアナ・テレス・ヴェローゾ(Caetano Emanuel Viana Telles Veloso、1942年8月7日 - )は、ブラジル作曲家および歌手
来歴

ヴェローゾはバイーア州サント・アマーロ・ダ・プリフィカサォンで、ジョゼ・テリス・ヴェローゾ(Jose Telles Veloso)とクラウディオノール・ヴィアナ・テリス・ヴェローゾ(Claudionor Vianna Telles Veloso)の7人の子供の5番目として生まれた。彼は彼のすぐ下の妹の名前を、そのとき人気のあったネルソン・ゴンサルヴェスの曲から取って付けた。それはマリア・ベターニア (Maria Bethania)であった。マリアは彼に先駆けて1960年代の中頃には歌手として有名になっていた。

彼は1967年に、ガル・コスタとのデュエット・アルバム『ドミンゴ(Domingo)』をリリース。このアルバムは、彼が後に発表する作品とは異なり、純粋なボサノヴァ・アルバムであった[1]。彼の初期の音楽は同じバイーア出身であるジョアン・ジルベルトドリヴァル・カイミからの強い音楽的影響を漂わせている。特にジョアンからは音楽性だけでなく、その音楽人としての生き方に影響を受けており、ジョアン・ジルベルトの継承者とも称される。

しかしその後は、ジルベルト・ジルガル・コスタ、トン・ゼー、シコ・ブアルキムタンチスなどの彼の音楽仲間たちと共に、後期のビートルズなどからの影響を多分に受け、「トロピカリア」(トロピカリズモ)と呼ばれる音楽的ムーブメントを形成していった。これは、ブラジルのポピュラー音楽と欧米のロックンロール、そして前衛芸術的な音楽の要素をミックスし、より国際的に、よりサイケデリックに、そして社会意識的なサウンドだった。ヴェローゾの政治的なスタンスは、1985年まで支配したブラジルの軍事政権の独裁に対する敵意を根源とする純粋な左翼的スタンスであり、彼の歌はたびたび検閲され、焼かれることもあった。彼はまた、社会主義者からは距離を置かれた。彼の音楽が、(ロックンロールがそうであるように)非国家主義的な思想の支持を受け、またその象徴だったからである。ヴェローゾとジルベルト・ジルは1968年に「反政府主義活動」のかどで刑務所に入れられ、2人は1969年7月に共演ライヴ(この時の録音は1972年にライヴ・アルバム『バーハ69』として発表される)を行った後、ロンドンへ亡命した[2]。翌月には、亡命前に録音された『ホワイト・アルバム』が発売される[2]。そして、ロンドンで『イン・ロンドン』、『トランザ』といったアルバムを制作した後、1972年に帰国。同年11月22日、後にミュージシャンとしてデビューを果たす息子モレーノ・ヴェローゾ(英語版)が生まれた[2]。それからの彼の作品には、国際的なスタイルだけではなく、少し忘れ去られてしまったようなブラジルの伝統的スタイルやリズムも多く取り入れられるようになった。

1981年のアルバム『オウトラス・パラーヴラス』は、ヴェローゾのアルバムとしては初めてブラジル国内の売り上げが10万枚を突破した[2]1980年代になると、ヴェローゾの人気はブラジル国外でも高まり、イスラエルフランスアフリカなどでもツアーを行った[3]。また、1983年には初のアメリカ公演を実現させる[3]


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